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ネッド少年は、サロンらしき部屋へ戻った。先程は余裕が無かったが、今部屋を眺めると貝殻や金の装飾が所々にあることが分かる。あれはシャコガイだろうか。シャコガイの小さな噴水が真ん中にあり、奥にパイプオルガンが鎮座している。 男は窓のそばのソファに腰掛けていた。他の船員はここにはいないのだろう。仕方なく男に声をかけることにした。 「あの、船長はどこですか?話がしたいのです」 男は立ち上がり、後ろで腕を組むと言った。 「私が船長だ。船員は殆どいない。話をしたところで君をあの忌々しい地上に帰すつもりも無い」 険しい顔を見せると、船長は辺りを行ったり来たり、怒りを鎮めるかのように暫く歩いた。 「そう…そうだ。帰すことは出来ないが、船内は自由に使うが良い。君は好奇心を満たすことができ、私は任務を遂行できる」 船長はネッド少年の両肩を持つと、決意したようであった。 少年は横に首を振る。自由と言われたが、監禁されている状況に変わりない。牢屋の中の自由など、自由と言えるのだろうか!ああ、僕はコンセイユのそばに居てやれず、母親やアロナックスに心配かけながら飢え死にするのだろう。それならばいっそ、助けられずに息絶えていれば。 がっくりと肩を落とした少年の傍で、窓の外を眺める船長は口を開く。 「付いて来なさい。君はノーチラス号の客人だ。コンセイユと共に海底の旅を送る為の案内をしよう」 出口の無い海底では、男の言う通りにせねばならないだろう。仕方なく付いて行くことにした。 階段のある長い廊下を32フィートほど歩いただろうか。右の扉を指差し、中に入るように促される。監獄だろうか。身を震わせながらドアを開けると、そこは個室だった。ベッドやテーブル、クローゼットがあり、体を癒すには十分の設備が揃っていた。 クローゼットには子供サイズの船員服と、少年が持ち出したボーダー服が綺麗に乾いた状態で掛けられていた。テーブルの上には持ち出したカバンと日記が置かれ、その横に巻き貝殻で作られたペンが添えられている。銛はベッドの横に立て掛けられ、荷物が全て揃っているのが理解できた。 「ぴい」 突然足元から鳴き声が聞こえ、驚き飛び上がった。コンセイユだ。胸をなでおろしたが、違和感に思わず声を出した。 「コンセイユ、何処から船内に入ってきたんだい?」 「ぴい」 彼は首を傾げながら少年を見つめていた。 『私が許可したから入ってこれたのだよ。海の中にならネッドも出て良いから』 ノーチラス号がまた心に声をかけた。 「私の許可もあればだが」 船長がすかさず言葉を挟む。 この男にもノーチラス号の声が聞こえるらしい。不思議なものだ。 「着替えるが良い。この後は客人らしく歓迎しようじゃないか」 男は瞳を伏せ、何かを考え込むとネッド少年に苦い笑みのような感情を見せると、ドアを閉めた。 せっかくなので、船員服に着替えた。なんと、ぴったりの大きさなのだ!まるでここに少年がやってくるのが分かっていたかのように用意されていたその服は、紺の生地に白い線が入っているセーラー服だ。生地はしっかりとしているが、硬すぎず心地よい素材である。綿に似ているが少し違う。 お気に入りの帽子を被ると、揃えてデザインされたかのような統一感があり、不思議さを更に際立たせた。 「着替えたかね」 ドアの外から男の声が聞こえる。急いで服の裾を払うと、着替えましたと声をかけた。 「ふむ、よく似合っている。では…」 船長は足を揃えると、コツコツと靴音を鳴らしながら長い廊下を歩き始める。コンセイユは懸命に付いていこうとするが、ヒレでは早く進めないのかペタペタと音を鳴らすだけで進めていない。少年がすくい上げ、急いで船長に付いて歩いた。 竜の背骨のような螺旋階段を登り、たどり着いた先は食堂であった。ただ、奥にキッチンが見え、円卓が一つと椅子が四つほどあるだけで、こざっぱりしているのだが。 船長が椅子を引き、ネッド少年とコンセイユを座らせる。最後に自分が席に着き、ポケットの中から取り出したベルを鳴らした。 キッチンの奥から1人の青年が現れ、料理を円卓に並べた。青年は白銀の髪を長く伸ばし、後ろで一つに縛っている。少年とコンセイユの目と目が合うと、何も言わずに淡い朱色の瞳を細めて微笑んだ。 青年がキッチンへ下がると、船長は料理の蓋を取る。湯気が立ち上り、まろやかな香りが辺りを包み込む。湯気が晴れると、スープとパンとステーキが用意されていた。 ネッド少年とコンセイユが喉を鳴らす。船長はふたりに食べるよう促すと、自らも食べ始めた。 赤いスープを一口飲むと、ポッと体が温まり、柔らかな気持ちに包まれた。その味は、地上でアロナックスに振舞ったトマトスープにとてもよく似ていた。 「トマトスープ、とても美味しいです」 少年がスプーンですくい上げもう一口飲もうと口を開くと、船長もコンセイユもスープを飲んだ。 「ふむ、よくできている」 満足そうに男は頷き言葉を続けた。 「トマトスープではないんだがね、少年。なかなか良いだろう」 「トマトでなければ何ですか?トウガラシでもないでしょうし」 少年は驚き、もう一度赤い汁を口に運んだ。たしかにトマトのような甘酸っぱさはあるが、少し違うのだ。 「ウミガメのスープだ」 なんだって!ウミガメから、どのように味を出すのだろうか!想像もつかず、スプーンを手から落とす。 「じゃあ、この赤いのは?」 「私が発見したマコウソウという海藻の色だ。細かく刻まれているだろう」 ネッド少年がコリアンダーだと思っていたものは、マコウソウと呼ばれる海藻らしい。海藻を食べるとは変わっている。 「もしかして、他のものも…」 「そうだ。パンに見えるがね、これはアオサと、また私が発見したものだがコスモと呼ばれる植物プランクトンの粉と、クジラのバターを混ぜ焼きあげたものだ」 なんて恐ろしいのだろう! 恐る恐るパン擬きを口にすると、甘い香りがふわりと鼻の奥に吹き抜けた。もちもちと粘度があり、とても美味しい。 「ステーキは?」 「クジラの肉だ。海は全てを恵んでくださる」 骨と脂しか使わないと思っていたクジラの肉を食べるなんて、なんという男なのだろう。なんて恐ろしいのだろう!食べる手が止まらないなんて! コンセイユもネッド少年も空腹だった為、たらふく食べて満足だった。 「さて」青年が食器を片付けている間に船長が言った。 「自己紹介がまだだったな。私はネモ。ノーチラス号の船長だということは言っていたな」 ネモ。ラティス語で何でもない、という意味だ。 「僕はネッドです。こっちは」 「コンセイユ。先ほど君が呼んでいた。合っているだろう?」 ええ。ネッド少年は小さく答えた。 ネモ船長は変わり者ではあるが、食事も出してくれる上、その食事も美味い。悪い人間ではないのかもしれない。ならば、しばらくここにいても良いかもしれないな、と少年はコンセイユを抱きしめる。 コンセイユの首で輝くNの文字のペンダントと、ネモ船長の帽子のNの文字が重なった。 この人は、もしや。
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