海底へ

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海底へ

今は何時だろうか。個室に戻されたネッド少年はぼんやりと天井を眺める。 母親やアロナックスは心配しているだろうか。深く考えると、瞳から涙が溢れそうで、少年は瞼を擦り無理やり笑顔を作る。大丈夫。乗組員Cなら話を聞いてくれるだろう。きっと大丈夫だ。 「ね、コンセイユ」 コンセイユは何を思っていたのか理解しているようで、大きく頷き「ぴい!」と大きく鳴いた。 『ネッドくん、船長がお呼びだ』 心にノーチラス号の声が響く。何の用だろう、と立ち上がり廊下に出ると、大きな影がドアを開けた瞬間に見えた。ああ、このそびえ立つ男は。 「ネモ船長。僕に何か用ですか?」 自分を鏡写しにしたような背の高い男は、帽子を被り直すと、「付いてきたまえ」と数時間前と同じように一言だけ言葉を口にした。 着いた先は、鋼鉄の服だろうか、機械のようなものが壁に掛けてある部屋。潮の香りが漂っている。部屋の中央には、大きなバルブで栓がされているようだ。 「この部屋は何をする場所なんですか?」 ネモ船長が鋼鉄の服を差し出し、口角を少し上げてみせる。 「この部屋から」 船長の見たこともない表情に不安を覚えたが、コンセイユが嬉しそうに両のヒレを体の前で叩くので、仕方なく大人しく着ることにした。 案の定、ぴったりと服のサイズが合う。最早尋ねるつもりもないが、やはり不思議なものだ。機械のような服は、体を動かす度に重たい金属の音をたてる。しかし、少年には軽快にジャンプができるほど軽く感じるのだ。 「潜水服は初めてだろう。私の潜水服は特に動きやすく作ってあるのだ」 ネモ船長は軽い球形の金属ヘルメットを被り、壁に立て掛けていた銃を手にする。ネッド少年も急いでヘルメットを被るが、うまく金具がはまらず視界がぐらついていた。見兼ねた船長が銃を床に下ろし、両手で金具をはめた。 「ありがとうございます」 「どういたしまして」 船長が初めてお礼を言ったので驚いた。 「ぴいぴい」 はっ、と声のする方に振り返ると、コンセイユが部屋の中心にあるバルブを回そうと必至に食らいついていた。コンセイユを抱き寄せ船長の方を向くと、彼はまたしても奇妙な言語を唱える。すると、独りでにバルブが回り、部屋の中に空気が満たされた。栓が抜かれ、蓋が開く。蒼い光が溢れたかと思うと、海水が湧き出てきた。ネッド少年は沈むのではないかと心配になったが、嬉しそうなコンセイユと普段通りの真剣な表情をしているネモ船長を見て心を落ち着かせた。 湧き出た海水は、もともと蓋がされていたくらいの高さまで上ると、止まった。 「君も銃を持ちなさい」 船長が少年に銃を手渡すと、彼は天井から垂れている鎖と輪を掴む。鎖が海面まで降り、船長の姿がノーチラス号から消えた。慌てて船長の真似をして降りると、球形のガラスいっぱいに海底の世界が広がっていた。あれはカニだろうか。足が長く、地上で見たことのある姿とは全く違う。見渡すと、色で溢れている。色とりどりのイソギンチャクがネッド少年を歓迎しているようだった。 美しい神秘の世界に見惚れていると、コンセイユが少年めがけて飛び込んできた。「ぴい」と甲高く鳴くと、すいすいと軽快に泳ぐ。ネッド少年は、目で彼を追うと、ネモ船長にこの素晴らしさを伝えようとした。 しかし、ここは海の中だ。身振り手振りで伝えるしかないだろう。少年は腕を振ってみせた。 「ああ、言葉は通じているぞ、少年」 耳元から船長の声が聞こえて驚いたネッド少年は、足元の岩に気付かず、躓きこけた。「わあ!」と声を出した瞬間に、大切な空気を吐き出してしまった! ネモ船長が焦る少年に静かに手を差し伸べ、小さく咳払いをする。 「この潜水服は特殊だ。チューブで服と船を繋がなくとも、空気は入ってくる。というよりは、空気を作る装置が組み込まれているのだ」 分かったかね?と言いたいように呼吸を促す。少年は深く息を吸い、「本当だ」と呟いた。 「何故船長の声が聞こえるのです?」 「それは…」 船長が答えようとしたそのとき、コンセイユがマグロのように素早く少年のそばに泳いできた。何があったのだろう。考える間も無く、何者かが少年めがけて体当たりしてきたのだ! 間一髪のところをネモ船長に腕を引かれて助けられたが、大きな影は白い歯を見せ、こちらを見て不気味に笑う。コンセイユを強く抱きしめ、何とか逃げようと海底を走る。途中で躓いたが、気にせず走り続ける。少年は気づいていなかった。無我夢中で走っても、影に先回りされていることを! 気づいた頃には遅かった。無数に生えた牙はこちらを噛みちぎろうと向けられていた。少年もコンセイユも目を瞑った。 『ターン!』 と、聞きなれない曇りがかった音が耳に刺さる。なんだろう、と目を開けた先に広がる光景は、摩訶不思議であった。大きな影は体をくねらせ血を撒き散らし、あたりを赤い霧のように染めている。 あの音は、銃の音だったのだ。 何も言わずに影に近づき、ロープを回す。きつく縛ると、ノーチラス号から垂らされた錘付きの鎖に引っ掛け、少年達の方へ向かった。 「ネモ船長、何度も助けてもらってすみません」 無言の船長に恐怖した少年は、謝った。 「気にしなくて良い。あれはホホジロザメだ。どう猛なサメで、コンセイユを餌だと認識したのだろう」 ネッド少年は、「はあ」と力なく返事するだけであった。今まで見てきたネモ船長は別人だったのだろうか。 「これは私が開発した電気銃だ。二十発分の弾が入っていて、一発撃つごとに自動で装填される。撃ち放つと弾は電気を帯びるのだ」 「そうなんですか」 よく分からないが、すごい技術がこの銃に込められているのだろう。少年は驚きと安堵で体が伸び縮みし、疲れ果てていた。 ふとコンセイユを見ると、気絶している。 ネモ船長は少年たちを岩場に座らせると、どうしたものかと考え込み、自身も座り込んだ。
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