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深海のワルツ
風が山々を吹き抜け、やがて水面の月を揺らす。月明かりは海底を撫でた。インテガの海は深い眠りにつく。
潜水艦ノーチラス号も静かに深海に身を委ねた。
ネモ船長と乗組員Cに見送られ、個室のベッドで眠るコンセイユ。ネッド少年は彼を抱いて丸まるように眠った。
少年は夢をみる。
栗毛の前髪の長い男が、幼い我が子と思しき子を抱きかかえている。幼子は男の指を握り、笑顔を咲かせていた。幸せそうな二人をネッド少年が眺めていたその時、どこかで優しいオルゴールのメロディが流れた。その旋律が聴こえたのか、男が幼子を抱きかかえたまま、軽やかにステップを踏む。三拍子で廻るメロディに、少年は懐かしさを覚えていた。
「ぴい」
耳元で囁かれた甲高い声に驚き、跳び上がる。コンセイユだ。
少年は瞼を擦り、あくびをする。伸びをした後に現実を思い出す。そう、ここは我が家ではない。ノーチラス号の中なのだ。
「おはよう、コンセイユ」
コンセイユの頭を撫でると、彼は喉をゴロゴロ鳴らす。喜ぶ様は猫みたいだ。ネッド少年が面白がって様子を眺めていると、ドアをノックする音が聞こえた。
ドアを開けると、ワゴンを引いた乗組員Cが立っている。コンセイユと少年の目を見ると微笑み、プレートに山盛りの海鮮サラダと、カニ味噌とウニのソースとフカヒレのスープ、それにパンを添えた。美味しそうな香りに、思わずお腹が鳴る。思っていた以上に大きな音が響いたので、少年は恥ずかしくなり、帽子の鍔で顔を隠したのだった。
豪華な朝食に、ネッド少年とコンセイユは満足した。カニがふんだんに使われていて、これが昨日倒したコンジキクモガニだとすぐに理解できた。銛で突き、仕留めたものを食べるのとは違う達成感。それだけでお腹いっぱいになる。
食事を終えたことを乗組員Cが確認すると、食器をワゴンに載せ、部屋を後にしようと背を向けた。後ろ髪を束ねた金の巻貝が眩く輝き、白銀の髪に反射する。宝石みたいで綺麗だ。
「Cさんの髪、とても綺麗ですね」
乗組員は振り返り照れくさそうにはにかむと、こっちに来てと手招きする。少年は、なんだろう?と不思議に思いながらも、白銀の青年に付いて行くことにした。
着いた先は、サロンだった。
ここは少年がノーチラス号で目を開けた、初めての場所だ。大きな半球の窓ガラスとソファ、シャコガイの噴水や海洋生物の標本などがある。乗組員Cはサロンのドアの前にワゴンをとめて、部屋の奥にあるパイプオルガンの鍵盤を指先でなぞった。イスに腰かけると、いくつかの鍵に指を充てる。触れる指先には繊細さが表れ、それは音となった。海底に響くは、賛美歌。海への賛歌である。
一つ一つの音に思いが込められたその歌は、少年たちの心に深く沁み渡り、初めて聴いたにも関わらず、どこか懐かしさを感じさせた。コンセイユは聴き入り、心地良さそうに頭を揺らしている。もっと聴いていたい。少年は思った。
最後の音が奏でられ、演奏が終わった。ソファに座っていたネッド少年は立ち上がり、乗組員Cに握手を求める。
「素晴らしい音楽でした。Cさんの美しさは内面から表れていたのですね」
コンセイユも嬉しそうに「ぴい」と鳴き、乗組員Cの足元で両ヒレを叩く。乗組員Cははにかみ、イスの右端に寄って座面を指差した。座るように促しているらしい。ネッド少年はコンセイユを抱きかかえ、彼の隣に座った。
少年の手をとり、人差し指の先に鍵を充てる。パイプオルガンが透き通った丸い音を鳴らすと、その音に合わせて白銀の青年が右手でコードをなぞる。ネッド少年が好きに音を鳴らす度、音楽が出来上がった。その音楽は喜びで溢れ、静かな海底を包み込む。
「美しい旋律だ」
声のした方を見やると、サロンの入り口にネモ船長が立っていた。勝手に弾いていたことを怒りに来たのだろうか。乗組員Cを見ると、彼は右手を握る。喉元にその手を当てると背筋を伸ばした。ノーチラス号での敬礼だろう。自分も行った方が良いだろうと判断した少年はコンセイユを座面に座らせ、すぐに立ち上がった。そのとき、右手がパイプオルガンの縁に触れ、突起に当たったのだ。
鈍い痛みに耐えきれず屈むと、パイプオルガンから聞こえるはずのない音が流れた。ピアノとヴァイオリンの音色だ。
「ごめんなさい。すぐに直します」
顔面蒼白の少年が慌てて帽子を脱ぐと、乗組員Cが肩を叩き、微笑んでみせる。後ろで腕を組んでいたネモ船長が自身の帽子を被り直した。
「心配するな、少年。このパイプオルガンは蓄音機でもあるのだ」
蓄音機、という聞き覚えのない言葉に首を傾げる。ネッド少年の不思議そうな顔を見た船長は説明を始めた。
「声の振動を一枚の円盤に凹凸を刻み、左右への揺れとして記録した円盤から、振動を取り出して再生する装置。それが蓄音機だ」
少年たちには理解出来なかったが、オルゴールと似た仕組みだと教えられ、やっと謎が解決した。
説明の最中にも蓄音機は鳴り続ける。船長が「他にもいくつか曲の種類がある」というので、聴かせてもらうことにした。
アップテンポの曲や、鎮魂歌、耳にしたことのある曲が殆どであった。しかし、ピアノとヴァイオリンの演奏で聴くのは初めてで、ネッド少年は一音も聴き漏らすことのないように集中していた。
最後の曲を流し始めたとき、ソファに座っていたネモ船長が立ち上がり、乗組員Cの前に手を差し出した。何が始まるというのか。コンセイユも興味深そうに見つめている。
船長の手をとった乗組員Cは微笑む。互いにお辞儀をし、Cの右手とネモ船長の左手を合わせ、反対の腕を互いの腰へまわす。長調の三拍子に合わせて体を揺らしたかと思えば、共に大きく足を踏み出し、その場を回ったり、緩やかなステップを床に刻んだ。1、2、3。1、2、3。円を描くようにメロディが流れる。ワルツである。
回る度ネモ船長のコートが翻り、まるで輝く尾羽を広げ踊る孔雀のように瞳に映る。乗組員Cはネモ船長に身を委ねる。背を反らしたり、円を描くステップを踏む度に白銀の髪を揺らし、窓から射し込む海中の仄かな明かりを受け止め、金色の髪留めを輝かせた。息が止まるほど、美しかった。
深海のワルツは、終わりを迎えた。
ネッド少年は盛大な拍手を送る。コンセイユもヒレを叩き、美しい光景に拍手をしていた。
乗組員Cが、今度はネッド少年と踊ろうと手を差し出す。彼に手を引かれるがまま、ちぐはぐなステップを踏む。どんなに間違えて足を踏んでも、青年は楽しそうに踊る。
踊り終わったネモ船長は、またいつものように腕を後ろで組んだ。しかし、少年は自分の踊る様を見つめる彼の瞳にセピア色の過去を見た気がした。
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