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「恋の神様って、監禁できると思う?」
「なに物騒なこと言ってんのよ」
ジャズの流れるバーカウンターでブラック・ブッシュをロックで飲んでいた私に、バリトンボイスが鋭くツッコミを入れてきた。ウイスキーに負けないくらい透明でとろりとした琥珀色の双眸が、仕方のない子ねと言わんばかりに眇められている。
間接照明の光に包まれた店内はほぼ満席状態だった。老若男女、様々な人の声がゆったりと混じり合い、心地よいBGMとなっている。私の隣に座っている長身の男は、バーテンダーに「レッド・アイをくださる?レモンも添えてね」と声をかけてからテーブルに肘をつけ、指を絡めて顎を乗せた。
「泉。傷心だからってバチあたりなこと言っちゃだーめ」
「だって潤兄さん。今度こそうまくいきますようにってお願いしたのに聞き届けてくれなかったんだもの。もう部屋に閉じ込めて言うこと聞いてもらうしかないと思うのよね」
「はいはいよしよし。全く、アンタって仕事は鬼のようにできるのに、恋愛となるとポンコツになるんだから」
子供にするように頭を撫でられる。ふわりと良い匂いが鼻先をくすぐった。甘くて爽やかでユニセックスな香り。兄さんはよしよしすれば私のご機嫌が直ると思っている節がある。やめてよ、私もうアラサーなんだから。
「まぁ確かに今回はちょっとフられるのが早かったように思うけど、こればっかりはしょうがないわよ。相性の問題よ」
「だけど……もうちょっとこまめに連絡を取っていたら、何か違ったかも」
「今週は仕事が忙しくてなかなか連絡できないって伝えていたんでしょう?埋め合わせに来月のこの日にデートしましょうねって、約束だってしてたんでしょう?泉は泉にできることをちゃんとやっていたじゃない。人事を尽くして天命を待って、その結果フラれたのだったらもうそういう運命だったのよ」
兄さんは優美な所作でバーテンダーからレッド・アイを受け取りながら、柔らかく微笑んだ。
その微笑に、つい魅入ってしまう。口角の上げ方も、目の細め方も。まるで人懐っこいゴールデン・レトリバーのようで愛らしい。波打つ亜麻色の長い髪を耳にかける仕草も、足の組み替え方も艶めかしい。
自分の魅せ方を分かっているひと。だから兄さんは男性からも女性からもよくモテる。先日も「新しい恋人ができたの」と語尾にハートマーク付きで報告してきた。
「……兄さんみたいになれたらいいのにな」
「あら。それが神様への次のお願い?」
「そういうわけじゃないけど。……兄さんは神様にお願いをしたことってある?」
「そりゃあるわよ。もっと綺麗になれますようにとか、研究助成金申請が採択されますようにとか。あと特許出願中だから無事に特許権が取れますようにとかね」
なんだかお金に関することばっかりね、と苦笑するので、私もつられて口の端を上げた。
「……願いは自力で叶えるものだって、熱血根性論を並べ立てる人もいるけれど。アタシは神様に縋ったっていいと思うのよね。そりゃ、なんの努力もしないでなんでもかんでもお願いしてばかりなのは良くないけれど、やるべきことを全部やった後はもう、運に任せるしかないじゃない?運って、その時のタイミングとか相性とか、努力じゃどうにもならない領域の最後の一押しなんじゃないかしら。だからその運のところを祈るの。神様どうか、願いを叶えて下さいって」
なんてね、と笑いかけられ、私は目をぱちくりとさせた。確かに雨乞いなんかがそうかもしれない。雨を降らせるという、努力ではどうにもならないところを神様にお願いしていたんだ。服が欲しい、美味しいものを食べたいというのは神様に願わなくていい。自分の力で叶えられることだから。
そう告げると兄さんは頷き、レッド・アイを一口飲んでからまた口を開いた。
「そう考えると、例え願い通りにならなかったとしても、そういう運命だったんだって諦めもつくでしょ?神様の思し召しだったんだって。今回フラれたのもまた思し召し。そしてそれにはきっと、意味があるのよ」
「バリキャリの仕事街道を突き進めという啓示?」
「もっと素敵な出会いへの序曲かもしれないわよ」
くしゃくしゃと頭を撫でられる。髪が絡まるからやめてほしいと訴えても聞きやしない。なんとか大きく温かな手を払い除け、結露だらけのグラスを掴む。ウイスキーを一気に飲み下し、カウンターにグラスを置くと、タン!と良い音がした。
「ありがとう兄さん。なんか元気出た。ここ2週間くらいずっとモヤモヤしてたんだけど、明日からまた全力で仕事がんばれそう」
「それでこそ泉よ!カッコイイ!」
「うん。戌井よりも、もっとずうっと良い人をモノにしてみせる」
「その意気よ!」
チアダンスに使うポンポンを振るように、兄さんは握った両手を胸の前で上下させた。しかしやがて「ん?」という神妙な顔をして動きを止めた。
「ねぇ、泉。今、いぬいって言った?」
「え?うん」
「下の名前は?」
「春彦。A製薬会社の営業マンなんだけど」
「…………」
兄さんの瞳が、つうう、と横に逸れていく。 冷や汗すら仄かに浮き始めている。
私は半眼になりながら端正な顔をじいぃと見据えた。
「……兄さん?最近付き合い始めたっていう人の名前を言ってみてくれる?」
「わ……、わ~、泉、このお酒、お花が添えてあって可愛いわねぇ」
「潤兄さん」
凄みをきかせると、兄さんはでかい身体を縮めて上目遣いに見つめてきた。尻尾を股に挟んで犬耳を垂らしているような塩梅である。
「せ……世間って、狭いわね?」
「兄さんとは暫く口をきかないから」
「いやッ、泉とお話できなくなるの、いやーっ!」
「知らない」
椅子の背もたれにかけていたコートとバッグをひっつかんで立ち上がり、ヒールを鳴らして店の入口へと向かう。会計を済ませようと慌てて店員に声をかけている兄さんを横目に、私は瀟洒な扉を開けた。
冷たい夜気が、頬と首筋を撫でてゆく。吐く息は白く、音もなく消えてゆく。
見上げると星空が目に映った。ダイヤモンドを散らしたような、美しい夜空。
ねぇ神様。これもあなたの思し召しだと言うのなら、随分となめた真似をしてくれるじゃない?
上等だ。私は、自分の力で運命だって変えてやる。
仕事も恋も、両方この手で掴み取ってやる。
そう固く誓った私は、ぎゅっと拳を握り締め、天に向かってパンチした。
バリキャリ女子の美神泉。彼女は半年後に、同じ職場の年下の部下に恋をして猛アタックを仕掛けることになるのだが、それはまた、別のお話。
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