序 店主の少女

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序 店主の少女

 ぽつん、と一軒の家が建っている。  霧の立ち込める山間(やまあい)の、小さな湖のほとり。黒い瓦葺きの屋根、慎ましく閉じられた鎧戸。  風が吹き、さあぁぁ…と音をたてた。  からり、と玄関の戸が開いて、一人の少女が顔を出す。 「…よし、もう行ったかな」  黒曜石のような瞳を光らせ、油断なく辺りを窺う。その度に肩下で切り揃えられた黒髪が律儀に揺れた。――なにも、いない。  ほっと安堵の息をもらした少女は再び家の中へ。ここは特に時間の流れはないけど、やることは沢山ある。何しろ、住んでいるのは彼女だけだから。  ()ずは家の四方の鎧戸をすべて開ける。  ガラガラガラ……ドン、と何枚もの頑丈な引き戸が収納される音が続いた。  鎧戸は大事だけど一々(いちいち)重い。こういうときは、他に誰かが居てくれてもいいと思う――淡々と、少女は自分が「朝にすること」と勝手に決めている一連の作業をこなした。  山間の一軒家に朝は訪れない。かと言って夜でもない。  少女は開け放した縁側から草履をひっかけ、庭に降り立つ。眼前には、周囲の深緑の山をそのまま映す、鏡面のごとく静かな湖。空は灰と水色の混ざった色で、ぼんやりと明るい。  着物だからあまり足を広げられないが、仁王立ちで腰に手をあて、一通りいつもの景色を堪能した少女はくるりと(きびす)を返した。  縁側に用意しておいた三枚の座蒲団を、等間隔にきちんと並べる。埃は付いていないが、ぱっぱっと手で払って、くすんだ赤の布地を整える。玄関先に回って「よいしょ」と、藍染めの暖簾(のれん)をかけた。  カラカラカラ…と、先程よりよほど軽快に玄関の引き戸を開けて、土間に置いてあった細長い木の板を抱えて戻る。  かたん、と引き戸の横に無造作に立て掛けた看板――そこには、墨で大きく書かれた『営業中』の文字。  山吹色の小袖に白い前掛けを身につけた少女は、髪が邪魔にならぬよう白い手拭いを頭に乗せて、襟足できゅっと縛った。 「さ、始めようか」  朝もなく夜もない、通る人影もない一軒家は、少女の意志と行動のみで、ちいさな茶屋となった。
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