62人が本棚に入れています
本棚に追加
/36ページ
参 名を知らぬひと 23.記憶
――瞼の裏に光を感じる。
そう……っと瞳を開けた少女の見つめる先に、庭があった。
開け放たれた十二畳間。縁側へと続く廊下の向こう側。きらきらと、晩夏の昼下がりの陽光を受けて石に囲まれた池の水が光を弾く。水面の形そのままに、ゆらりと揺れる光の影。ごろん、と寝そべり見上げた飴色の天井に、それは白く映し出されていた。
ちゃぷん、ちゃぷんと、まるでそこに幻の水があるように。
「きれい……」
いとけない、声。
聞くものは誰もいないかと思ったが――
「起きたか、お嬢」
「あ。いたの? 総史さん」
「いたの、はないだろ……」
苦い微笑み。年の頃は十五、六。気の強そうな唇に涼やかな目許。言葉遣いは明け透けだが、怜悧な少年だ。
少女はふわり、と笑みを浮かべた。仰向けに寝そべったまま、顔だけ少年――総史へと向ける。
「師匠が呼んでたぞ。母屋だ。送ろうか?」
頭上に立ち、反対側から覗き込む少年の顔は、逆さ向き。なんだか面白いな……と、少女はクスクス笑った。
「いい。一人で行ける。総史さんの心配症」
よいしょ、と身を起こそうとして――やめた。
袂から、肘の上まで丸見えの細腕をつい、と差し出す。
「引っ張って」
「一人で行けるんじゃ、なかったのか、よっ」
それでも律儀に回り込み、起こしやすいように膝をついて差し出された手。少女には少し大きいそれを、気にせず右手で掴むと……ぐっ! と、勢いよく引き上げられた。
そのまま、ぼふん、と少年の胸の辺りに突っ込む。
「うわっ……と。ごめん、ありがと」
「……べつに。慌てて駆けて転ぶなよ。俺、まだ少し仕事が残ってるから」
「そっか」
嗅ぎ馴れた、墨と彩具、和紙に糊の匂いが染みついた胸元。きちんとした袷から顔を上げると、少女はまた、くすぐったそうに笑った。
総史は眩しそうに目を細める。
「またな、お嬢」
「ん」
肩で切り揃えたつややかな黒髪を翻し、少女は十二畳間の向こう、囲炉裏の板間をパタパタ……と抜け、玄関から元気よく母屋へと戻っていった。
* * *
父は、絵師だ。
ここは都から離れた辺鄙な場所だが、少し街道を下った先には清水豊かな渓流を見下ろす高台に、お殿様の暮らす城があるという。
父は、お殿様に召し抱えられていた。
(それにしたって、もう少し人里で暮らせばいいものを……)
内心で溢しつつ、少女はやや苦心して坂を登る。雪が積もれば、この傾斜は格好の滑り台になるのだが。
今は夏。徒弟の誰かが作ってくれた小さな木のそりは、納屋の奥で眠っている。
煩いほどの油蝉の鳴き声に交じり、カナカナカナ……と、日暮の声が遠くから響いた。もう、そんな時間かと空を振り仰ぐ。
日は、少し西に傾いただろうか。気を取り直し、再び視線を前へと戻した。
坂道を登った先。ひらけた地面に建つ平屋は、離れよりもずっと大きい。庭の置き石を避け、柔らかな苔を踏んで近づく絵師の一人娘に、庭先の落ち葉を拾っていた老爺が気づき、声を掛ける。
「お帰りなさいお嬢さん。旦那様が探しておいででしたよ」
「知ってる。総史さんからさっき聞いたわ。奥の間?」
「おそらく」
「わかった。ありがと土岐さん」
軽やかに告げて去る少女に、長年絵師の家に仕える老爺は微笑んだ。しばらくその可愛らしい背を見送り、また、作業に戻る。
美観にうるさい当主の心根に添うよう、箒は使わず手による落ち葉拾い。ひどく根気の要る作業だが、それはこの家で使用人を違え、何代も前から見られる光景だった。
「土岐さん! 父の話が済んだらお茶にしましょ。ちゃんと休まなきゃだめよ!」
「はいはい」
玄関口に足を掛けた少女が振り返り、声を張る。
老爺は目線を上げ、にこにことそれに応えた。
* * *
カラカラカラ……と、すでに隙間の開いていた引き戸を引く。夏の間は、大抵開けっぱなしだ。虫も入るが、風を入れないことにはやり過ごせない。少女は、その辺は割り切っている。
心持ち、ひんやりとする家の中は静かだ。
絵を描くときは余分なものを閉め出したいと、わざわざ離れを造るだけはある。
丁寧に磨き上げられた廊下の木目は乾いてつめたく、素の足裏に丁度よい。
少女は、何度か折れて突き当たった先の襖戸を、そっと開けた。
「父上? お呼びと伺いましたが」
「来たか」
す、と音を立てぬよう気を配り、戸を閉めてから畳に足を滑らせる。
父である絵師は、奥座敷の障子戸をすべて取り払い、裏庭を眺めていた。少女が寝転がって三回転はできそうなほど大きな和紙と向かい合っている。
……今回は、水墨画。濃淡のうつくしい漆黒の影と流れる薄墨、余白の空間が寂寥感をかきたてる、広大な渓谷が描かれていた。
少女はちらり、と父の手元に視線を落とし、うずうずと表情を緩ませかけたが、辛うじて真面目な顔を維持した。制作中の父に「私も描きたいです」など、断じて言ってはならない。妨げとなってしまう。
少女の気配は伝わったろうに、そこは彼女の読み通り譲れぬ一線だったのか。
ため息と共にコトリ、と皿に筆を置いた絵師は、淡々と口をひらいた。視線は寄越さぬまま、まるで『このあとは何を描き足そう?』と言わんばかりの、大層おだやかな口ぶりだった。
「澪。この家を継ぐにあたり、婿にとるなら――徒弟のなかで誰がいい?」
「は?」
すっとんきょうな声を上げ、大きな目を丸くさせる少女――澪は齢九つ。
また、随分と話が飛んだな……と冷静に、なるべく動揺を出さぬよう。正座の居住まいを正した澪は、今いる徒弟の面々を順に頭に描いた。答えを告げるため、すぅ……と、息を吸う。
かちり。
歯車の進む音が、どこかで鳴った気がした。
最初のコメントを投稿しよう!