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参 名を知らぬひと 26.その、刻限まで
記憶のなかの季節が流れる。春、夏、秋――幾度、こうして過ごしただろう。たゆたう意識のなか、店主の乙女は苦悶した。
視たくない。
すでに経たこと。みずからの死を。突然すぎた“終わり”の一部始終を。
なのに大樹が突きつける。
まだ新芽のような命をそなえていた、あの頃を。
――――やめて。
思い出したくないと、乙女は声なく哭いた。
* * *
一葉、紅葉が宙を滑る。
ひらり、ひらひらと舞うように。それは水面にわずかな波紋を描き、舟のように浮かぶ。
離れの池は、夏は青葉。秋は燃えるような紅葉を鏡面の如く映す。桜の木はこことは反対。家屋側だ。
澪は縁側の草履を引っ掛け、くれない鮮やかな木々を通り越して、大欅の根元へと走り出た。
今なら、本家の父に呼ばれてみんな出払っている。当分は誰も来ない。
徒弟九名が暮らす離れがもぬけの殻となるのは、通常まれだった。
はぁ、はぁと息を整え、澪は木肌に触れる。
「からすさん。いる?」
「――あぁ」
(!!)
いた。
今日は、いてくれた――!
澪の顔が歓喜で輝く。欅の枝越し、はるか高みの青い空を見上げると、ふわりと黒羽根が舞い降りた。
思わず目を細める。
「ね、こっち来て」
「嫌だ」
「? なんで? 減るもんじゃなし」
「減る。霊力」
「えぇぇー、大妖なんじゃなかったの? 小っさいなぁ!」
「……………………はあぁぁぁぁ。――くそっ」
結構な間。沈黙ののち、やがて大仰なため息とともに投げやりな声が頭上から落とされた。
澪はクスクスと笑う。笑って、全然腕の回らない大樹の幹に抱きついた。こてん、と側頭部を預ける。
“からす”に影はない。が、気配はあった。
――来る。
ぶわっ……と生暖かな風圧のあと。
修験者装束の青年は、高下駄の歯を器用に地へと付けた。
顔は不機嫌一色。それでも他の追随を許さぬほど艶を含み、綺麗だ。
ほぅ……と、澪は暫し見とれた。
「いいね。眼福」
「馬鹿か。妖の霊力を間近に浴びすぎンと、現から浮くぞ。何でもかんでも、視え易くなっちまう」
「いいよ。からすさんの顔、好きだもの。もっと見てたい。できれば描きたい」
「……」
再度、沈黙。
“からす”と呼ばれた青年は改めて吐息した。解せん、と、小さく呟く。
「ったく。俺もなんで一々来ちまうんだろうな……っと。なんだ? 少しは背ぇ、伸びたか」
す、と欅から離れ、触れはしないが僅か一歩の距離まで詰める少女に。
青年は徐にまなざしを寛げて、微笑んだ。
(!)
澪は目をみひらく。
見入って、つい嬉しくなり、ポロっと溢した。
「そりゃあそうよ。もう十五よ? 里の娘なら、嫁にだって行ける……ん、だから」
「? どうした、“お嬢”」
「やめて。その呼び方」
ぴしゃっと言葉を断ち切られ、妖は眉をひそめた。形のよい唇を若干尖らせ、不服そうに問う。
「なんでだよ。離れの男どもはそう呼んでるだろ」
「……“お嬢”って呼ぶのは総史さんだけよ。最近は名前で呼ばれるけど。でも、どうせ呼ばれるんなら、からすさんがいい。……ね、呼んで。知ってるでしょ? 私の名前」
人外の青年は苦笑した。紅を帯びた闇色の瞳が困ったように細められる。
「あからさまだねぇ、お前。……なんだよ、好きじゃねぇの? あいつのこと」
「わかんない人ね……ここまで言わせといて。あんたが、好きなの」
もはや泣きそうだった。大きく、澄んだ黒瞳はたちまち潤んだが、あふれた滴が玉を結び転がり落ちるまで、青年がそこに居ることはなかった。
* * *
じゃり、じゃり……と。
背後から聞き慣れた歩調の足音が響く。
離れの玉砂利の庭はこんなとき、ひどく不粋だ。
澪はつよく眉根を寄せた。一筋だけ頬を伝った涙は、慌ててみずからの小袖に吸わせる。
最近、気に入って纏う山吹色に二ヶ所、濡れて濃いしみができた。
そっと反対の手で隠し、振り向く。相手はわかってる。
「なに? 総史さ……んっ??!」
心の準備もへったくれもなかった。急に腕を掴まれ、逞しい胸にバッ! と引き寄せられる。かき抱かれた背の感触にひたすら動揺した。
――抱きしめ、られている。
「え。や…………どうして? あの、離し……」
霞む語尾。震える声音を恥じらいととった筆頭徒弟の青年――二十二歳の総史は、腕に力を込めたまま離さなかった。
「決まったぞ澪」と、ただ嬉しげに囁く。吐息も身体も熱かった。……離れの手前まで走って来たのだろうか?
身じろぐ澪の背は、いつの間にか傍らの幹に当たっていた。左手首は掴まれ、右肩を押さえられて動けない。
すわ何事かと身構え、固まる左頬に総史がゆっくりと顔を寄せた。
(!)
思わず目を瞑る。
柔らかな身体を精一杯強張らせる許嫁に、総史はフッと笑み綻んだ。そのまま、耳に触れそうなほどの距離で吐息を紡ぐ。
「さっき、皆の前で通達された。おれたちの祝言。来年の春、お前が十六になる卯月に挙げようって」
「え?」
戸惑いを通り越し、思考が止まった。
息を呑む。否、奪われた。
唇を噛むように塞がれ、半ばひらいていた隙間から舌を搦めとられる。咥内を溶かされる。
「~~ッ」
あつい。熱くて怖い。どうしたらいいのか全然わからない。
違う、ちがう。私が添い遂げたいのはこの人じゃ――……
(!?)
そう、気づいた瞬間。
じくりと胸が痛んだ。
もて余した激情が躯の芯を駆け上がり、力が抜ける。立っていられない。
――お願い、言わせて。
目じりに再び涙が滲んだ。
さんざん、口のなかを蹂躙したかれがようやく離れる。くるしい息を懸命に整え、新鮮な空気を肺に送った。
潤む目で辛うじて顔を上げると、狂おしいほどのまなざしに晒されていた。
「……長かった。ずっと……ずっと、好きだったんだ、澪。お前だけが」
「そう……し、さん」
逸る心臓の音。
胸を締めつける、せつない、苦い痛み。
諸々の“情”のなせるあらゆるものに澪は打たれ、立ちすくんだ。
――――――――
どうしても告げるべきだった。大切な、黙してはいけない“何か”があったのに。
澪は、とうとう口にできなかった。
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