62人が本棚に入れています
本棚に追加
/36ページ
壱 お客さん 2.満員御礼(前)
土間の洗い場で先の童子が残した茶器と、使った急須を洗う。
木の桶が二つ。一つは、洗い物を入れる桶。一つは、濯ぐためのきれいな水を入れる桶。
少女は足元の、黒っぽい甕の木蓋を取って目を凝らし、中を覗き込んだ。
残り、半分ほど。
「……“夜”は出られないし。汲んでこようか」
かぱん、と蓋を閉めた。
井戸は玄関横の裏手近く。『営業中』の看板から八歩ほどの距離にある。
ポンプ式ではない。昔ながらの釣瓶を縄で括った、周りを石で囲んだものだ。
少女は、縄を繰って滑車がキィキィ、と奏でる音を聞きながら釣瓶を降ろした。
やがて、ぽちゃん、と水の手応え。充分に沈める。
今度は引き上げる。重い。
ぎゅ、ぎゅっと力を込めて引き上げた釣瓶には、澄んだ井戸水が並々と入っていた。これを持ってきた桶に移し、二往復すれば土間の甕はいっぱいになる。
(半分は残ってたし、一回分でいいか)
ざあっ……と流し入れた。
その時。
生身の声が、すぐ後ろから聞こえた。
「よう、天音。まだやってんのか、茶屋」
「!!」
思い切り驚いた少女は肩をびくっと跳ねさせ、はじかれるように振り返る。
「烏……! 驚かせないで。桶、落としちゃうとこだったよ、井戸に」
悪ぃ悪ぃと、ちっとも思ってもいないことを言いながら、黒髪の青年――烏はどこか人のわるい顔で笑った。
「でもさ、落としてもその……ひと? 拾ってくれたんじゃねぇの」
――ん? と、思った瞬間。再び揺らぐ、何かの気配。まさか。
「え……とうとう、そんな所から来ちゃいます?」
固唾を飲む天音と、面白がる烏が並んで見守るなか。
井戸の中から、水に濡れた白魚のようにうつくしい手が伸び、ぺたりと石の縁に触れた。
本日、二人めの“お客さん”だった。
* * *
とりあえず自力で出てきてもらった。
手を貸しても良かったが、引き込まれない保証はどこにもない。天音は安全第一を心がけている。
ぴちゃ、と水が滴る。長い時間をかけて、ゆっくりと現れたのは、全身をしとど濡らしながらも派手な花魁衣装を纏う美女だった。
ただし、足は裸足。踵の上――右足の腱をスッパリと切られている。
血は流れていないが、明らかに切られ過ぎだ。骨が見えている。
「……お疲れさま。お姐さん、大変だったね。うちで、少し休んでく?」
目の前の少女から労しげに声を掛けられたのがそんなに意外だったのか。花魁は一瞬だけ目をみひらいたあと、目尻に差した朱も艶やかに、大輪の牡丹のごとく微笑んだ。
値千金。ほんものの、最高峰の妓女だ。
隣で烏が、ひゅうっと口笛を吹いた。
(この男、なんでこんな時に現れるかな)
少しの苛立ちは、接客中の胸のうちに落とし込む。
「烏、せっかくだから役に立ちなよ。姐さんを縁側まで運んであげて」
やけに整った顔を見上げて「いいでしょ?」と頼む。
もっと渋られるかと覚悟していたが、こちらも意外な反応だった。
「ん? あぁ、いいぜ」
嬉々として井戸まで歩む。足取りは軽い。
水を吸った花魁衣装は重かろうに、実に呆気なく抱きかかえた。
「どうした、連れてくんだろ? 先に行って、準備しとけよ」
烏は、顎で玄関の更に向こう――こことは反対の位置にある縁側を指し示した。
一対の見目よい男女が、あまりにも絵になっていたから見とれていたとは、絶対に言えない。自分の絵心が憎い。
「わかった。ごめん」
天音は、自然と二人に惹き寄せられてしまう視線を強引に断ち切り、家の反対側へ向けて、ぱっと身を翻した。
縁側に、絵を描く一揃いを準備できた頃。
じゃり、じゃり……と、玄関と庭の境目に配置した玉砂利を、ゆっくりと踏みしめる音が近づいて来た。
ややあって、かれらの姿を視界にとらえる。
井戸から現れた花魁を腕に抱いた、普段よりも丁寧な歩調の青年――“烏”。
便宜上そう呼んでいるけど、本当の名は知らない。
“天音”――これも、かれが勝手に付けた仮の名だ。ここに住んでいるのは自分だけだし、呼ぶのはたまに訪れる彼だけ。あんまり、意味はないと思うのだが。
少女は、ゆるく頭を振った。不要な思考は追い出すに限る。
その度、つやつやと光を弾く癖のない前髪が揺れて、瞼の上を行き来した。邪魔になる後ろ髪は手拭いでまとめてあるから、視界を遮られることはない。
天音は、意識を切り替えた。
「ありがとう、烏。さ、姐さん。座布団が濡れるとかは気にしなくていいから、そこに足もあげて座ってよ」
「……おおきに」
(京言葉? 吉原かと思った。違うのかな)
三つ繋げた座布団に花魁を横座りさせ、天音は直接廊下に膝を付く。
烏は彼女が落ちないよう庭に立ったまま、その背を支えていた。意外なほど優しい。
縁側に広げたのは、先ほどの童子を描いたものの更に半分、八つ切りの和紙。横長に置き、花魁の全身が入るよう、ざっと目分量で測る。……大丈夫。
天音は、筆に墨を含ませた。
一度、目を瞑る。
胸に浮かんだのは花魁衣装ではない。
どことなく武家の子女のように慎ましやかな藤色の装い。年の頃は、十八、九。化粧もしていない。
但し闇に浮かぶ夜桜のような、何とも言えない清らかな色香を滲ませている……――
すぅ、と瞼をあげて、少女は筆を走らせた。
構図は目の前の花魁だが、描くのは胸のうちの“彼女”だ。描き損じたりしない。
無意識に息が止まる。
天音は薄く形の良い唇を真一文字に引き結び、ひた、と和紙を見据えた。
最初のコメントを投稿しよう!