壱 お客さん 2.満員御礼(前)

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壱 お客さん 2.満員御礼(前)

 土間の洗い場で先の童子が残した茶器と、使った急須を洗う。  木の(おけ)が二つ。一つは、洗い物を入れる桶。一つは、(ゆす)ぐためのきれいな水を入れる桶。  少女は足元の、黒っぽい(かめ)木蓋(きぶた)を取って目を凝らし、中を覗き込んだ。  残り、半分ほど。 「……“夜”は出られないし。汲んでこようか」  かぱん、と蓋を閉めた。  井戸は玄関横の裏手近く。『営業中』の看板から八歩ほどの距離にある。  ポンプ式ではない。昔ながらの釣瓶(つるべ)を縄で括った、周りを石で囲んだものだ。  少女は、縄を()って滑車がキィキィ、と奏でる音を聞きながら釣瓶を降ろした。  やがて、ぽちゃん、と水の手応え。充分に沈める。  今度は引き上げる。重い。  ぎゅ、ぎゅっと力を込めて引き上げた釣瓶には、澄んだ井戸水が並々と入っていた。これを持ってきた桶に移し、二往復すれば土間の甕はいっぱいになる。  (半分は残ってたし、一回分でいいか)  ざあっ……と流し入れた。  その時。  生身の声が、すぐ後ろから聞こえた。 「よう、天音(あまね)。まだやってんのか、茶屋」 「!!」  思い切り驚いた少女は肩をびくっと跳ねさせ、はじかれるように振り返る。 「(からす)……! 驚かせないで。桶、落としちゃうとこだったよ、井戸に」  悪ぃ悪ぃと、ちっとも思ってもいないことを言いながら、黒髪の青年――烏はどこか人のわるい顔で笑った。 「でもさ、落としてもその……ひと? 拾ってくれたんじゃねぇの」  ――ん? と、思った瞬間。再び揺らぐ、何かの気配。まさか。 「え……とうとう、そんな所から来ちゃいます?」  固唾(かたず)を飲む天音と、面白がる烏が並んで見守るなか。  井戸の中から、水に濡れた白魚のようにうつくしい手が伸び、ぺたりと石の(ふち)に触れた。  本日、二人めの“お客さん”だった。    *   *   *  とりあえず自力で出てきてもらった。  手を貸しても良かったが、引き込まれない保証はどこにもない。天音は安全第一を心がけている。  ぴちゃ、と水が(したた)る。長い時間をかけて、ゆっくりと現れたのは、全身をしとど濡らしながらも派手な花魁(おいらん)衣装を(まと)う美女だった。  ただし、足は裸足。(かかと)の上――右足の腱をスッパリと切られている。  血は流れていないが、明らかに切られ過ぎだ。骨が見えている。 「……お疲れさま。お(ねえ)さん、大変だったね。うちで、少し休んでく?」  目の前の少女から(いたわ)しげに声を掛けられたのがそんなに意外だったのか。花魁は一瞬だけ目をみひらいたあと、目尻に差した朱も(あで)やかに、大輪の牡丹のごとく微笑んだ。  (あたい)千金。ほんものの、最高峰の妓女だ。  隣で烏が、ひゅうっと口笛を吹いた。  (この男、なんでこんな時に現れるかな)  少しの苛立ちは、接客中の胸のうちに落とし込む。 「烏、せっかくだから役に立ちなよ。姐さんを縁側まで運んであげて」  やけに整った顔を見上げて「いいでしょ?」と頼む。  もっと渋られるかと覚悟していたが、こちらも意外な反応だった。 「ん? あぁ、いいぜ」  嬉々として井戸まで歩む。足取りは軽い。  水を吸った花魁衣装は重かろうに、実に呆気なく抱きかかえた。 「どうした、連れてくんだろ? 先に行って、準備しとけよ」  烏は、(あご)で玄関の更に向こう――こことは反対の位置にある縁側を指し示した。  一対の見目よい男女が、あまりにも絵になっていたから見とれていたとは、絶対に言えない。自分の絵心が憎い。 「わかった。ごめん」  天音は、自然と二人に惹き寄せられてしまう視線を強引に断ち切り、家の反対側へ向けて、ぱっと身を(ひるがえ)した。  縁側に、絵を描く一揃(ひとそろ)いを準備できた頃。  じゃり、じゃり……と、玄関と庭の境目に配置した玉砂利を、ゆっくりと踏みしめる音が近づいて来た。  ややあって、かれらの姿を視界にとらえる。  井戸から現れた花魁を腕に抱いた、普段よりも丁寧な歩調の青年――“(からす)”。  便宜上そう呼んでいるけど、本当の名は知らない。  “天音(あまね)”――これも、かれが勝手に付けた仮の名だ。ここに住んでいるのは自分だけだし、呼ぶのはたまに訪れる彼だけ。あんまり、意味はないと思うのだが。  少女は、ゆるく(かぶり)を振った。不要な思考は追い出すに限る。  その度、つやつやと光を弾く癖のない前髪が揺れて、瞼の上を行き来した。邪魔になる後ろ髪は手拭いでまとめてあるから、視界を遮られることはない。  天音は、意識を切り替えた。 「ありがとう、烏。さ、姐さん。座布団が濡れるとかは気にしなくていいから、そこに足もあげて座ってよ」 「……おおきに」  (京言葉? 吉原かと思った。違うのかな)  三つ繋げた座布団に花魁を横座りさせ、天音は直接廊下に膝を付く。  烏は彼女が落ちないよう庭に立ったまま、その背を支えていた。意外なほど優しい。  縁側に広げたのは、先ほどの童子を描いたものの更に半分、八つ切りの和紙。横長に置き、花魁の全身が入るよう、ざっと目分量で測る。……大丈夫。  天音は、筆に墨を含ませた。  一度、目を瞑る。  胸に浮かんだのは花魁衣装ではない。  どことなく武家の子女のように慎ましやかな藤色(ふじいろ)の装い。年の頃は、十八、九。化粧もしていない。  (ただ)し闇に浮かぶ夜桜のような、何とも言えない清らかな色香を滲ませている……――  すぅ、と瞼をあげて、少女は筆を走らせた。  構図は目の前の花魁だが、描くのは胸のうちの“彼女”だ。描き損じたりしない。  無意識に息が止まる。  天音は薄く形の良い唇を真一文字に引き結び、ひた、と和紙を見据えた。
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