1 肘窩(ちゅうか)覚醒

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1 肘窩(ちゅうか)覚醒

 長編を脱稿して編集者にメールで送った。その後解放感から好き勝手に過ごし、寝るときになってメッセージアプリの音が鳴った。  まさかもうチェックし終えたとかそんなんじゃないよな? 怖々とスマホをタップする。 『そういえば、短編の初稿の締め切りが25日の朝7時にしてたんですが、出来上がってますか? 長編といっしょに送る、とおっしゃられてましたが』  後半にトゲのある文面。やけに言葉遣いが丁寧なときは危ないサインだ。担当の機嫌が悪い。今日――というか今は25日の午前0時を少し過ぎたところ。なんのことだろうか。そんな仕事を引き受けたつもりはない。  担当編集者とのやり取りのログをさかのぼってみる。  ……あった。 『お忙しいところすみません。ひとつお願いがあります。大変申し訳ないのですが、短編を1本書いていただけませんか?  短編を載せる予定だった作家が急病になりまして。間に合わない、と……。こんなことを頼めるのは決手(きまりては)鯖折(さばおり)先生しかいないんです!   どうか先生らしい、クレイジー且つルナティック及び脳髄が揺さぶられる作品を、3万文字以上4万文字以内でひとつ』  これがそのときの文面である。  長編のあとエピローグを書く手前だったので、気持ちに多少余裕ができているころだ。でもって、酒を大量に飲んでいた。気が大きくなっていたらしく、 『あー~ー~いいっすよぅぅぅぅぅううう!!! 長編を脱稿したら、送っちゃいますねぇぇぇぇえええええっ!!!!! 文字化けしている変な顔文字』  なんて送り返している。  記憶がない。まっさらだ。脳内が記憶棚を漁りまくっているのがよくわかる。細胞が擬人化し、ケンケンガクガクの責任のなすりつけ合いだ。  どうする? 「酔っ払って憶えてません」なんて言ったら、乗り込んできて木刀でしばかれそうだし。だけど、こんな緊急事態なのに、体は休息を求めている。  一瞬だけびっくりして起きた脳が、まぶたを下ろそうとしている。大本営の決断が、眠たくなってきちゃった~~~ブッチしてやろうぜってなったのか。いやでもなあ……とりあえずは眠ったら終わりなので、洗濯バサミでまぶたを引っ張らせた。  仕事を投げ出しては良心が咎める。何をするにもまずはこの眠気をなんとか せねば。  部屋の電気を点け、パソコンの電源を入れ、ブラウザを立ち上げて検索する。もちろん、眠気を消し去る方法である。  体質なのかカフェイン系の食べ物や飲み物が効いた試しがない。  マウスを操作しながら、1ページ、2ページとクリックしていく。どれも眠ければコーヒーや薬を飲みましょうって当たり前だわ。あとはランニングや散歩をしましょう関連。不審者に見られたくないし、この時期はめちゃめちゃ寒いから無理。  10ページぐらい進めたところの最下部に、聞いたこともないけど興味深い見出しを見つけた。 『肘窩(ちゅうか)覚醒~指人間を用いた疑似注射で秘められた能力が覚醒する!~』  何を言っているのかまったく理解できない。が、なぜか魅入られたようにクリックしてしまう。ページを下にスクロールしていくと、やり方が書いてあった。  左手の人差し指と中指を右肩に乗せる。そこから手のひらに向かって人間のように歩かせる。このとき、せめて右肘より先だけは露出しておくことが大事。  肘窩(ちゅうか)――肘の採血を行う所――まで来たら、動きを止める。2本の指を揃えて「神様、お願いします!」と唱えながら、爪先に意識を集中させて指を浮かし、肘をつつく。徐々に高くしたり、つつき強めたりしながらひたすら神様に願う。とにかく無心に行うことが重要で、万が一血が出たらやめるように、と、小さい字で表記されている。  肘窩(ちゅうか)は腕の真ん中にあたる部分だ。そこを刺激し続ければ、人体の真ん中上部についている頭――脳――が、特殊な神経伝達が起こり、脳の使われていない部位の動きが活性化するらしい。  ……すごくうさんくさい。かといって残り6時間で3万字以上は、死ぬ気でやって間に合うかどうかの瀬戸際だ。  ……やるしかないか。長袖を捲り上げて肘から下を露出する。右肩に指人間を置いて肘窩(ちゅうか)までの急坂(きゅうはん)を下らせる。  深呼吸をして、そこまで言いたくもないけど―― 「神様、お願いします!」  肘窩(ちゅうか)に刺激を与える。それなりの痛みが走り、赤くなり、一点集中による特有の痛みがそこそこの時間残った。  なかなか嫌な痛みだなぁ……やるけど。 「神様、お願いします! 神様、お願いします! 神様、お願いします!」  高さ強弱を毎回変えて突き刺す。気のせいか痛みの分だけ脳みそが動いている感じがしてきた。言葉に言い表せられない。プロジェクターに次々文字と映像がサブリミナル効果のごとく、浮かんでくる。 「神様、お願いします! 神様、お願いします! 神様、お願いします!」  意識が、神経が、研ぎ澄まされて来るのがわかる。眠いとか眠くないとかそんな次元の問題じゃない。音が遠のき、痛覚は消え失せ、視界は焦点の合わないカメラのように、鮮明と不鮮明を繰り返している。自分の自分の中の自分が自分を観測しているのだ。天井と床のちょうど中間から5ミリズレた地点で。  自分の意思に反して指動きが止まる。肘窩(ちゅうか)は痛々しく赤くなり、まさに血が出る寸前だ。エディターを開き、指が高速で物語を作り出していく。瞬きの数が増え、普段ではありえない速度での暗転と明転が反復される。  意識が分断される感覚がある。キーボードを叩き続けるオンの意識と、起こっていることについていけてないオフの自分。まるで誰かが自分の体を乗っ取り、操っているかのよう。  オフのほうに意識を寄せてみる。すると、意識の遥か底から腕が伸びてきて、一気に黒い穴――空間?――に引きずり込まれたのだった。
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