蝶の瞳

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 その日は曇天でした。厚い雲が空を覆い尽くし、太陽を隠していました。  遠くの方から雷鳴が聞こえてきます。きっと午後から雨が降ることでしょう。  一陣の風が巻き起こりました。  杉の木たちはザワザワと音を立てながら、その身を左右にゆらしました。若い杉の木は今にも泣き出しそうな顔をしながら、雲を見つめていました。無理もありません。彼はまだ幼く、嵐を体験したことがないからです。   そんな様子を眺めながら、私は青い若葉の上で羽を休めていました。嵐がやってくる時は、こうしてじっとしていることが大切だと母から教わっていたからです。  母は昨年の梅雨、神社の軒下に住む一匹の蜘蛛に捕らえられ、食べられてしまいました。  今日はちょうど母の一周忌にあたります。   そこで私は山を降りて、ここまで飛んできたのです。  私の眼前には古びた神社が立っていました。そこには母を食べた蜘蛛が住んでいましたが、今はもうその姿は見えません。それもそのはずです。蜘蛛は私の母を食べた数日後、スズメに食べられてしまったからです。  スズメは蜘蛛の巣を引っ掻き回した後、一本の糸にぶら下がった蜘蛛を口に咥えると、自分の巣に持ち帰りました。そうして、まだ飛ぶことのできない子供たちに蜘蛛を与えてやったのです。親スズメはそうやって毎日、子供たちに餌を与えていたのでありました。  神社の近くには大きな杉の木が立っていました。その木の枝の間にスズメの親子が住んでいたのです。しかし、もうそこにはスズメの親子はいませんでした。なぜなら、親スズメが子スズメに蜘蛛を与えた数週間後、蛇に食べられてしまったからです。  今、巣の中には小さな骨がいくつか散らばっています。骨はその大きさを変えることなく、巣の中で眠り続けていました。  蛇は繁殖期になると自分の住処を離れて、獲物を探しに出かけるのでした。親スズメが食べられたのもちょうどそんな時でした。  私は青い稲が空に向かって高々と伸びている田んぼを見つめました。そこは以前、親スズメを食べた蛇の住処でした。しかし、今となっては蛇の姿を見つけることはできません。なぜなら、蛇は親スズメを食べた一月後に小さな男の子によって殺されてしまったからです。  蛇が畦道を渡ろうとした時に、一人の男の子が手に棒切れを持って、立っていました。その男の子の顔は傷だらけで、頬は赤く染まっていました。男の子は蛇を見つけるやいなや、手に持っていた棒切れで蛇の頭を叩きつけました。蛇はその一撃によって、死んでしまったのです。男の子は死んでしまった蛇を手で持ち上げると、田んぼの中へ放り込みました。  男の子は蛇に出会う前、自分のお兄さんとケンカをして、たくさん殴られていたのでした。  私は赤茶け色に錆びたスレート屋根の家を見つめました。そこには蛇を殺した男の子が住んでいました。しかし、今、男の子はこの家にはいませんでした。彼は今、私の母や蜘蛛、親スズメや蛇たちと同じように暗く、冷たい土の中で眠っています。蛇を殺してから半年後に、小さな男の子は流行病にかかり、亡くなってしまったからです。  男の子が亡くなった夜、男の子のお兄さんは一人家を出て、この神社までやって来たのでした。  彼は目に大粒の涙を浮かべながら、鳥居をくぐり、右手に握りしめていた小銭を賽銭箱に投げ入れると、両手を強く叩いて、神様にお祈りを始めました。 「神様。どうか弟を天国に連れて行ってください。どうかお願いします!」  そう言って、お兄さんは神様にお祈りをしていました。  その時、私はお兄さんを慰めようと思い、彼の周りフワリフワリと舞いました。けれど、お兄さんは瞳を固く結び、一心にお祈りをし続けていました。  お兄さんのその様子を見ていたのは、この私と空に浮かぶお月さまだけでした。  
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