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もう振り返らない
息が凍る帰り道、踏切待ちで立ち止まっていられなくて、駅の階段を上り下りすることが癖になってしまった。
階段を上り半分超えたところでつい、いつも後ろを振り返ってしまう。
あの夏の日を忘れることができない。
まだ暑い夏の日、アスファルトの熱で靴が溶けてしまうと思いながら纏わりつく髪を括り直して帰っていた。
通学路の踏切は一度閉まると中々開かず、矢印が出ては消えを繰り返す。
遠回りになるが階段を上り駅の改札口の前を通って帰った方がこのまま太陽に焼かれなくて済むと思い、駅を目指した。
駅の階段は蒸し暑く長い。手すりを持つと鉄のところに熱を持っている。
階段を半分上ったところで後ろから、「早希ちゃん」と私を呼ぶ声が聞こえた。
「今帰りなの?」
振り返ると陽介くんがスクールバックと部活道具が入った鞄を両肩にクロスさせて重そうに持っている。
階段を上ろうとする陽介くんは息を切らしていた。それでも、階段を一段飛ばしで駆け上がって隣に並んでくれる。
「そうだよ。重そうだね」
「慣れて来たけどね。線路の踏切中々開かないよね。待ちきれないよ」
苦笑しながら話す陽介くんの汗が顎を伝ってコンクリートに染み込んでいく。
滴る汗を鞄から出したタオルハンカチで拭きながら、「さっきめちゃくちゃ走ったんだ」と眉を下げて笑った。
その笑顔は幼稚園の頃からずっと変わらない。
陽介くんと出会ったのは幼稚園の頃だった。
その時、私はかけっこの速い翔太くんの事が好きだったけれど、小学校に入って同じクラスになった丸いお目目の可愛い陽介くんを気がつけば好きになっていた。
小学校2年生の理科で鏡の実験をした時、太陽の光がキラキラと鏡に反射して眩しい中、陽介くんはオレンジ色のパンジーに反射した光を当てて「早く育つかもしれない」と笑っていた。
そんな理解し難いところを見てさらに好きになった。
かけっこも速くないし、昼休みに皆でするサッカーも得意じゃなかったけれど、私にとっては陽介くんは特別だった。
小学校高学年になっても、丸いお目目で可愛くて、でも背は高くなって、髪も短くなって、野球が得意になってしまったけれど、まだまだ特別好きだった。
単純に余り可愛くない陽介くんのことも好きだった。
中学生になり、ブカブカの学ランを着た陽介くんの学ランに着られた感も好きだったし、受験前になると漸くぴったりになった制服を着て髪を刈り上げにしてしまった陽介くんも好きだった。
高校になってもその想いは変わらない。
筋肉質になって出会った頃の柔らかく細く丸い感じは無くなってしまったけれど、困ったように眉を下げて笑う陽介くんが一等好きだ。
ずっと見ているだけで自ら積極的に話しかけたり、遊びに誘ったことはない。ただ、見ているだけで幸せな気分になれた。
だから、『恋人になりたい』『付き合いたい』とは思っても実感が自身の事として湧かず今一歩踏み出せない。
そのまま陽介くんが隣で明るい声で話す。私も陽介くんと並んで帰ることが嬉しくて声が自然と弾んでいく。
「今日も暑いね」
「蒸し風呂みたいだよね」
「サウナじゃなくて?」
冗談を言い合い、駅の階段を下りて駅を出る。道路に戻ると車側をさり気なく歩いてくれた。
そんな陽介くんはあの頃の可愛い陽介くんじゃない。そして、特別イケメンでも不良でもない。赤点も取らないし、満点も取らない。それでも、今纏っている雰囲気が好きだ。
たわいない会話が楽しくて笑みが溢れる。
「クラスで美化委員の押し付け合いが始まって参ったよ」
「そうなの? 毎日のように点検に行かなきゃいけないから嫌になっちゃったんだろうね」
雑談を続けながら歩いていると陽介くんが普段の様子と何の変わりも前ぶれもなく言った。
「隣、歩いてると付き合ってるみたいだね」
私は戸惑いを隠せず動揺した。心臓が本当にドキッといったような気さえした。
そして、反射した鏡の光を花に当てて「早く育つかも」と理解し難いことを言っていた陽介くん横顔を思い出していた。
「付き合ってるみたい」というのは陽介くんの気持ちということでいいんだろうかとか、告白なんだろうかとか、雑談の一種なんだろうかとか、余計なことを数秒の内に沢山考えた。
先程までの和やかな空気が止まる。
私が返答に詰まってしまっているからだ。
「友達だから一緒に帰るんじゃないの?」
思い余って可愛らしくない返答をしてしまった。焦って陽介くんを見ると先程と大して変わりなく「そっか、そうだね」と前を向いたまま答えた。
ショックだった。
唯の雑談の一種だったのかと目線が下がり自然と足元を見ると、たった数歩だか陽介くんの手と足が同時に出た気がした。
「さっきのどう言う意味?」と聞けたならと一緒に歩きながら50回は思った。
後少しの勇気があればとも思ったがそんな勇気は湧いて来ず、陽介くんはそのまま雑談を続け、私も暗い空気にならないように明るく振る舞い、私の家の直ぐ近くでその日は別れた。
あの日から、ずっと後悔している。
もう一度あの時に戻れたなら満面の笑みを浮かべて言いたい。
「本当だね。付き合ってるみたい」
だって、好きなのだから。
付き合いたい、恋人になりたいと思っていたが自分自身に本当にその現実が押し寄せて来るとは思っていなかった。
本当に陽介くんと付き合えるのなら付き合いたいに決まっているし、そのチャンスを自ら棒に振り、後悔していないのなら明らかに心の一部が欠けている。
また、帰りが一緒になったのなら次こそは。
そう決意した日々を繰り返している内に青々とした葉は茶色や黄色や赤に変わり、赤熱の太陽は緩やな日差しに変わっていった。
太陽は離れ、葉はついには落ちてしまう。
冬が来た。
幼稚園から高校に入るまでずっと特別好きなのに。情けない体たらくだ。
あの日から毎日遠回りをして階段上り、何度後ろを振り返っても陽介くんはいない。
あれから一度も帰り道はおろか廊下でも遭遇出来ない。私にはクラスまで行って呼び出す勇気もなく、ただ遠くから陽介くんを見つめるだけの日々。そんな日々は不安を連れてくる。
陽介くんに彼女が出来たらどうしよう。
この年季の入った思いはどう昇華すればいいのかと考えながら今日も階段を上り半分上ったところで振り返る。
待っても陽介くんは来ない。
わかっているが今日も振り返ることを辞めることができない。
階段を上り切り駅の改札口の前から、ふと窓を覗くと陽介くんが1人で踏切待ちをしている。
あの暑い夏の日にあんなに重そうな鞄を持って階段を上っていたのに。
「待ちきれないよ」と息が切れるくらい走っていたのに。
もしかしてーー。
私はつい先程上って来た階段を勢いのまま駆け下りた。そして、踏切の方へ駆け出す。冷たい空気が急に肺に入り込んで、胸が締め付けられる。それでも必死で駆けた。
踏切の少し手前で白い息を吐き、息を切らせながら、陽介くんを呼ぼうとしたが声が思うように出ない。
もう二度とこんなチャンスは来ない。
その想いが私を突き動かし、手の届く距離まで走り寄る。
それでも踏切の警報機の音で私に気が付かない。私は手をつんのめるようにして掴んだ。
「え?」
陽介くんが驚きながら振り向き、私と私の手を見ている。
私は息が整わないままに怒涛の勢いで言葉を発した。
「一緒に、帰ろうっ」
「こうしてっ、手を繋いでるみたいだとっ」
息を思いっきり吸い込んで電車の音に負けないくらい大きな声で。
「付き合ってるみたいだねっ」
今度は笑顔で言えただろうか。
踏切の警報音や電車が通り過ぎる音もより自身の鼓動の方が大きく聞こえる。
固まっている陽介くんの手をもう一度ギュッと握り、目を見つめた。
陽介くんは口を開けては閉めてを繰り返しながらも、私の手を振り払わない。
希望を持っても良いのだろうか。
電車が通り過ぎ、踏切が上がる頃には陽介くんも冷静になっているだろう。
出来ることなら、このまま手を繋いで帰りたい。
ーーそれは想いが通じる5分前ーー
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