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陽が顔を出したばかりだというのに、玄関をノックする音が響く。
この音を聞くと酷い頭痛が起きる。
だが無視したところで、この扉の向こうにいる男は餓死もしくは凍死するまでノックを止めないだろう事はよく分かっている。
小さく十字を切った後、鍵を外し扉を開けた。
「おはようございます、シモン先生」
きらきらと輝く朝露のような笑顔に、心の底から溜め息が溢れる。
「夜通し馬を走らせたのかね?」
「えぇ、ジャンさんのところの調律が終わってすぐに街を出ました」
羽織っていた外套をポールハンガーに掛け、勝手に暖炉に薪を焚べ、手を温めるのを見つめる。
「明日は仕事の予定が無いので、どうせなら早い方が良いと思って」
益々酷くなる頭痛に、何も言わず彼の側を離れた。
仕事が無いはずが無い。彼は引く手数多の調律師だ。
国中、いや、国外からも彼の調律を求めるピアニストの声が溢れ返っている。
それを断り、こんな辺鄙な場所へ、偏屈な男の顔を見る為にわざわざ休みを入れたのだ。
冷たい水を一杯飲み、古びたピアノの前に腰を下ろす。
このボロ屋で、主に捨てられたままポツンと座していた姿が何とも健気で麗しかった。
そっと鍵盤に指を置き、優しく奏でる。
「まだ心を開いてはくれないか……」
ヒステリックな叫び声だ。
触れるな、慰めるな、出て行け。
と、私を拒絶している。
手を止め、息を吐く。
顔に掛かった前髪をかき上げると、惚けたような表情の男と目が合った。
「やっぱり、貴方のピアノは僕の生きる糧だ」
「こんな酷い音に心酔できる君を心の底から羨ましく思うよ」
ピアノの前から立ち上がり、横を抜けようとしたところで腕を掴まれた。
「今日こそ、見ていてくれませんか?僕が仕事をするところを」
「断る。そもそも私は君に依頼などしていない」
掴まれた腕を振り払い、自室の扉を乱暴に閉めた。
机の上に置いていたロザリオを掴み、マリア像の前に膝を付く。
私はまだ欲に囚われている。赦しは訪れないのですか。何故こんな罰をお与えになるのです。
この指を、切り落とせぬからですか?
神よ。偉大なる神よ。聖なる母マリアよ。
聴こえる。ピアノの音が聴こえる。
澄んだ小川のせせらぎであり、無垢な小鳥の囀りである。
恍惚として愛を甘受する女の声であり、低く愛を囁く男の声である。
失ったはずの音が聴こえる。
あの男が、ピアノに愛を囁いている。
あの男が、ピアノに愛を囁かれている。
両手で強く耳を塞いでも、頭の中に響いてくる。
神よ、未だ光を夢見る私を赦してくれ。
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