君に愛を

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 自室から出た時には、陽が朱く染まり始めていた。 「先生、僕は先生を愛しています」 「その言葉はどこぞの令嬢に使えと何度も言っているはずだが」 「もう逃げないでないください」  暖炉の前の揺り椅子に腰を下ろした私を、彼は至極真剣な表情で見下ろしてくる。 「逃げて、何が悪いというのかね?」  真っ直ぐな瞳をじっと見返す。 「僕は貴方を救いたい」 「戯言にもならんな」  ふん、と鼻を鳴らして一蹴に伏すと、強く肩を掴まれた。 「貴方のピアノはまだ死んでいない」  彼の言葉が、ずん、と重くのしかかる。 「僕の手を取って下さい。愛を受け入れて、愛を囁いて下さい」  まるで硝子細工を扱うかの如く、彼は私の手に触れ、令嬢にするように唇を寄せる。 「シモン、貴方も、僕に触れて。怖れずに」 「断る。私は」  彼の唇が触れたところが熱い。  パチ、パチ、と薪が爆ぜるように、胸の奥が跳ねている。  欲に囚われている私が、触れられるはずがない。 「やめろ、放せ」 「嫌です。これ以上苦しんでいる貴方を放っておけない」  シモン。と名前を呼び、私に触れ、唇を寄せてくる。  やめろ、やめろ、やめてくれ。 「自身の感情を受け入れて下さい。さぁ、僕の手を取って」 「嫌だ、やめろ、もう嫌だ」  駄々をこねる子供のように首を振る私に、彼は唇を重ね、硬く握り締めた手を解いて指を絡めた。  温かい。  奥底に閉じ込めた感情が箍を外そうと暴れ出す。 「セドリック……」  名前を呼んだのは何度目だろうか。  片手の指より少ない事は確かだろう。 「そのまま、僕に身を任せて」  何度も何度も啄むように繰り返される口付けに、身体の力を抜いて目を閉じた。  ヒステリックに叫んでいたのはピアノではない。  私自身だ。 「私は、怖れていた」  次々に若い才能が芽を出し、私を追い越そうとする。  あの若さが嫉ましい。  軽やかに動く羽根のような指が欲しい。   「私は、老いて失っていくばかりだ」  美しいピアノが輝きを失っていく。  音色がサビ付き、不協和音へと変わっていく。 「もう一度、あの輝かしい日々を」  ほろり、と涙が溢れた。  誰もが私を羨んだ。  誰もが私のピアノを求めた。  誰もが、私を。 「ピアノを弾いて下さい。僕の為に」 「無理だ。私は、もう」 「大丈夫ですよ、さぁ」  そっと引かれただけなのに、身体はすんなりと立ち上がり、ピアノへと向かって行く。  いつも通りにピアノの前に腰を下ろすと、後ろからセドリックが私を抱き締めた。 「さぁ、鍵盤に指を置いて」  まるで子供に教えるように、彼は私の手を取り、鍵盤の上へと導く。   「奏でて下さい。思うままに」  鍵盤に置いた指の間から、彼は遊ぶように音を鳴らしていく。  それを追いかけるように、私も鍵盤を鳴らした。  笑っている。少女の笑い声だ。   「あぁ、君は、こんな声をしていたのか」  美しい声だ。  こんな声を、私は拒絶し続けていたのか。  もっと聴きたい。もっと、もっと、もっと。  思うままに指を走らせる私を、セドリックは優しく包んでくれた。  愛、か。  思わず自嘲してしまう。  が、悪くない。  蝋燭が尽きて消え、ようやく手を止める。  息を吸い込み、深く吐き出す。  こんな風に呼吸をしたのはいつぶりだろうか。 「ありがとう、セドリック」 「先生のピアノは、僕の生きる糧ですから。これからは、もっとたくさん聴かせて下さい」 「あぁ、そうだな」  セドリック、君は最高の調律師だ。  こんなに錆びついた私を直してくれるなんて。  視線を上げた私に、セドリックがまた唇を重ねる。  青白い月明かりが、彼の端正な横顔を照らしていた。
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