のぞき見少女心中未遂

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のぞき見少女心中未遂 <1>  じぶんの席でヘルマン・ヘッセの小説「車輪の下」を読んでいたゆーさくは、KIYOKOに腕をつかまれ、教室の片隅へとひっぱってゆかれた。  劣等感に打ちひしがれている「車輪の下」の主人公ハンスと、いまのじぶんとを重ね合わせて小説世界に没入していたゆーさくは、KIYOKOに二の腕をいきなり鷲づかみされ、たちまち現実世界へとひきもどされた。 「あたし、知っとうとよ、あんたのヒミツば」  KIYOKOの悪戯っけなおおきな瞳が、射貫くように、ゆーさくの顔を凝視した。KIYOKOの息のかかった女子どもも、ふたりの様子を遠巻きに眺めている。 「なにを知っとうと?」 「ここで、言ってもいいとね?」  KIYOKOの自信ありげな物言いに、ゆーさくの眼がおもわず、泳いだ。ゆーさくの視線のさきに、不安げな面持ちでこっちをみつめるおなじ文芸部員のノブオミの顔があった。 「どうすればいいとね?」 「あんたに頼みごとがあるけん、つぎの日曜日の正午、通学路の途中にある神社に来んしゃい。ひとりで来るとよ、わかった?」  ゆーさくは仕方なく、うなずいた。KIYOKOはまだなにか言いたげであったが、動揺しているゆーさくをみて、口をつぐんだ。立ち去ろうとしたKIYOKOに、 「ちょっと待ちんしゃい」  ゆーさくは声を励まし、呼びとめた。 「なんね?」 「おれのヒミツってなんや? ちょっとでいいけん、どんなんか教えちゃれ」 「いましゃべったら、あんた、神社に来んやろうもん」 「それはそれで、行くたい」 「うちはそげなお馬鹿さんじゃ、あーりませんとよ。せいぜいつぎの日曜日まで、ヒミツってなんやろう、なんやろうって、悶々としとき」 「どーせ、たいしたヒミツじゃなかっちゃろ?」 「知らぬがホトケとは、このことだわね」  なりゆきを見守っている女子どもに、KIYOKOは腕組みをして、ほほ笑みかけた。    ゆーさくは生まれつきの極度の遠視で、虫眼鏡みたいな黒ぶち眼鏡をかけている。鼻梁ににじみ出た汗で眼鏡がずり落ちてきた。ゆーさくはまなじりを決するように、ぐいっと指で眼鏡を押し上げた。 「わかったたい。で、そっちは何人神社に来るとや?」 「ひとりたい」 「おまえ、ひとりね?」 「そうたい」  ゆーさくは、拍子抜けした。  配下の女子どもに目配せしたKIYOKOは、彼女らをひきつれて教室からぞろぞろと出て行った。あたふたしながらかけよって来たノブオミをゆーさくは制した。 「なんもなか」 「そげなことなかろう、顔がひきつっとうばい。脅かされたっちゃろ?」 「されるもんか。そんなことより、あいつらどこ行ったか知っとうね?」 「連れションやろ。KIYOKOの行くとこどこにでも、あいつら付いて行くけん」  ゆーさくは、すこしほっとしながらも、浮かない表情を浮かべたまま、じぶんの席に着いた。ノブオミが追っかけて来て、KIYOKOとの会話の中身を知りたがった。 「よう、教えてくれよ。トモダチやろうもん」  ゆーさく以外に話し相手がいないノブオミは周囲に聞こえよがしにやたらと「トモダチ、トモダチ」と、連呼した。 「なあ、なあ」と、しつこいノブオミが急に黙りこくったとおもったら、トイレから戻って来たKIYOKOが、ゆーさくたちのかたわらを、肩をそびやかし、風を吹かせて通りすぎた。  着席したKIYOKOのうしろ姿を、ゆーさくは恨めしそうにみつめた。背中まで垂れ下がったKIYOKOのポニーテールは、KIYOKOがとなりの生徒に話しかけたり、うしろをふりかえったり、からだをゆすって笑ったりするたびに、野うさぎのように陽気に跳ねまわって、ゆーさくのこころを搔き乱すのだった。 <2>  稲穂が海のようにひろがって、陽が落ちれば漆黒の闇と化すこのド田舎に、ゆーさくが転校して来たのは、小学三年生の春であった。  この市の東のはしっこから西のはしっこへと越して来たのだが、ゆーさくの眼には、この町の子どもたちは顔つきも、ことばづかいも、しぐさも、生活習慣も、とてもおなじ市内の子どもとはおもえぬくらいに、なにからなにまで異なってみえた。どいつもこいつも野暮ったく映ったが、KIYOKOだけが、どこぞのお姫様のように着飾っていて、つんと澄ましていた。  KIYOKOは母子家庭の一人っ子だった。母親は町の中心部で薬屋を営んでおり、薬屋は町に一軒しかなく、KIYOKOは薬屋のお嬢さんだった。  転校初日はクラス替えの日で、ゆーさくだけでなく、どの子の顔にも新しい教室に突然放り込まれた戸惑いの色が浮かんでいた。新任の教師がやって来るまでどうすごせばいいのか、みなわからずにいるのだった。  しかしそのうち、元からこの学校にいる子どもらは、顔見知りをみつけては、磁石のように吸い寄せられ合って、雨上がりの水溜まりのように、教室のあちこちに、グループが生まれた。さいごまで、ぽつねんと教室の一角にたたずんでいたのは、ゆーさくだけであった。 「あれ、だれね?」 「みたことなか顔たいね」  そんなささやき声が、ゆーさくの耳にも聞こえてきた。とりわけ、ひときわ目立つ群れを形成している女子グループがいて、その中心にKIYOKOがいた。彼女らは、はじめはなにか怪しげな闖入者を警戒する眼つきでみていたが、やがて、 「なんね、あの分厚いレンズ」 「目がぎょろぎょろしとうね」 などとひそひそ言いだした。  ゆーさくは、ここで挫けては、こんごの学校生活が悲惨なものになると悟って、聞こえぬふりをしていた。  それにしても、KIYOKOだけは放っているオーラがほかの女子たちとちがった。キャンディキャンディのようなド派手な髪型をしていて、彼女を囲んでいる女子らはその使用人にしかみえない。  こそこそ女子らとしゃべっていたKIYOKOが、グループの輪から一歩そとへ踏みだした。そうして、ゆっくり、ゆーさくのほうへ歩み寄って来た。 「あんた、きょう転校して来た子ね?」 「そうたい。なんか文句あるとや」 「文句とか、なかよ。もうすぐ、先生が来るけんね、空いた椅子に座っとき」  KIYOKOの声はうわずっていて、彼女が勇気をふりしぼってじぶんのところへ来てくれたことにゆーさくは気づいた。ゆーさくは予想外のKIYOKOの気づかいに肩すかしを喰らって、つぎのことばが継げなかった。  KIYOKOはその後の学校生活でも、なにかとゆーさくの世話を焼いた。遠足のグループ分けでは、ゆーさくがどのグループにも加われずに孤立していると、仲の良い男子に声をかけ、そのグループにゆーさくが入れるようめんどうをみてくれたりした。KIYOKOのそうした心づかいに、最初こそゆーさくは助けられたが、クラスメイトと打ち解けて、だれとでも話が出来るようになってくると、KIYOKOのおせっかいがいいかげんうっとうしくおもえてきた。  そのうち、クラスのガキ大将とつるみだしたゆーさくは、地金の腕白ぶりを発揮して、KIYOKOをからかいはじめた。しまいにゆーさくは、KIYOKOのチョウチョウの髪留めを「やーい。虫がとまっとー」と言って冷やかしたり、髪の毛をひっぱったりして、泣かせた。さすがに、KIYOKOの取り巻きたちは怒って、ゆーさくに詰め寄った。 「あんた、近ごろ調子に乗っとりゃせんね。KIYOKOちゃんの恩ば忘れたっちゃなかね?」  女子どもは、鶏の群れがよってたかって一羽の鶏をつつきまわすように、ゆーさくを〝総口撃〟しはじめた。 「あたし、大丈夫やけん。べつにゆーさくくんだけが悪いわけじゃなかとよ。あたしも悪いとこあったとよ」  ゆーさくをかばうKIYOKOを目のあたりにして、女子らはみな、気の抜けたような表情をした。居合わせた男子たちも白けた様子であった。その空気を察して、ゆーさくは、これはまずか、と直感した。KIYOKOに惚れられてガキ大将らからそっぽをむかれるのを怖れた。それ以降ゆーさくは意識して、KIYOKOにつっけんどんな態度をとったりしたが、KIYOKOは健気にもゆーさくのことを想いつづけているふうであった。  ふたりの立場が一変したのは、中学生になってからだった。色気づいたせいであろうか、KIYOKOはなにかとゆーさくに挑戦的で、突っかかってくるようになった。KIYOKOがオタマジャクシとカエルほどにちがう生き物になってしまったことに、ゆーさくは当惑した。  KIYOKOがなにを考えているのやら、近ごろのゆーさくには皆目わからなくなっていた。 <3>  その日の放課後、ゆーさくは運動場を足早に横切ると、文芸部の部室の扉をあけた。ほかの文化部の部室は校舎のなかにあるのだけれども、文芸部だけが体育部といっしょに運動場西側の部室棟のなかに入れられていた。  ノブオミはもう、部室に来ていた。机にむかって、ケント紙をGペンで引っ掻きながらせっせとアニメのイラストを描いている。このノブオミとゆーさくのふたりが、文芸部員のぜんぶであった。  部室の片隅のカゴのなかに黒ずんだバレーボールが山積みされているのは、この部室のあるじが以前は女子バレーボール部であったことを物語っている。打ちっぱなしのコンクリートの壁に囲まれた部室は無機質で、かび臭く、体育部の奴らはユニフォームに着替えればあかるい陽ざしが待ち受けている運動場にとびだしてゆけるが、ゆーさくらはこの監獄のような部室に閉じこもって活動しなければならない。ノブオミは黙々とアニメのイラストを描き、ゆーさくはたまにぶらりとやって来て小説を読んだりしてすごしたが、ゆーさくはこの部室がすこしも息苦しくはなかった。むしろ、わずらわしいことのおおい外界からじぶんを遮断してくれるかけがえのない部屋であった。  オタク扱いされてクラスメイトのだれからも相手にされないノブオミもこの部屋に入ると顔つきまで変わって、蘇えったように、生き生きとしている。ゆーさくは、このノブオミのことを、とても見下す気持ちにはなれなかった。ノブオミは空気の読めない、ただのオタクではない。ひょっとすれば、偉い奴なのでは? とさえおもったりするのだった。じぶんの物差しをちゃんと持っており、女子に気持ち悪がられてもひと目を気にしないでハーレムアニメを一心不乱にカリカリと描いていたりするからだ。とてもじぶんには真似出来ない、とゆーさくはおもうのであった。  ノブオミは、ゆーさくが部室に入ってきてじぶんの目のまえの机に座ると、「おつかれ」とケント紙から顔を上げずに言った。バレーボール部時代の用具が邪魔して、ノブオミとゆーさくは互いの机を挟んで向かい合わなければ座れないのだった。ノブオミはKIYOKOの一件はもう忘れたようで、なにも聞いてこない。 「蒸し暑かねえ、クーラーば付けてくれんかねえ」  ゆーさくは、机の上の下敷きを取り上げて顔をあおいだ。 「ゆーさくくん。ここは体育部の倉庫ばい。そげなことしてくれるわけなかろうもん」 「ほんなごと、こげな粗末なあつかいばうけるとは夢にもおもわんかったばい」 「ゆーさくくんは、文芸部とアニメーション研究会がむりやりくっ付けられて、貧乏くじばひいたとおもっとろう?」 「そげなことなかよ。秘密基地が出来たっちゃもん。この部室には、だーれも入って来れん」  ゆーさくは、鞄のなかからヘルマン・ヘッセの「車輪の下」をとりだすと、つづきを読みだした。小説世界にひきこまれるよりさきに、部室棟の壁にとまった蝉がかまびすしく鳴きだしたので、ゆーさくは閉口してぱたんと本をとじた。それをじろッとみたノブオミは、額の汗をぬぐいながら言った。 「ゆーさくくん。はよう気張って小説ば書きんしゃいよ。そうしたら、ぼくが挿絵ば描いちゃるけん」 「おまえのイラストのごと、そうかんたんには小説は書けんとよ」 「そんならくさ、シナリオばこしらえんね。話の筋さえつくってくれれば、ぼくがそれを漫画にしちゃあけん」 「人生経験が足りんけん、なんも書けんよ。まだ中二やもん」  ノブオミは、ケント紙から顔を上げ、 「それはちがうよ、ゆーさくくん。人生経験が無くったって創作はできる」と、いきり立つように言った。 「そんなもんかね」 「そんなもんたい。じゃあ聞くばってん、いったいぜんたい何歳になれば、ひとは生きたといえるとね。三十歳ね? 四十歳ね? 五十歳ね?」 「すくなくとも二十歳は超えんと、人生のことはわからんちゃないとね」 「ゆーさくくん。君は、レイモン・ラディゲば知っとうね?」 「知らん」 「ラディゲば知らんと? 『肉体の悪魔』ば書いたフランスの小説家たい。十八歳で『肉体の悪魔』ば書いて、二十歳で死んだとよ」 「いやらしかタイトルやね。ポルノね?」 「ポルノじゃなか、高尚な心理小説たい。ガラスの十代にしか書けん文学たい。小説家志望なら、ゆーさくくんも一読しとくとよかよ」  ノブオミは、Gペンをにぎりしめると、ふたたびケント紙に眼を落とした。ラディゲの「肉体の悪魔」が、少年と人妻との不倫を描いた小説であることくらいゆーさくも読んで知っていたのだが、ノブオミがゆーさくより優位に立とうとやっきになっていたので、ゆーさくはとぼけたのだった。 「それよか、ゆーさくくん。KIYOKOはどうも、ゆーさくくんのことば好いとうような感じがするっちゃけどね。要するに、好きの裏返しで、男子ば虐めたくなる心理たい。KIYOKOはどうも、それたい」 「ノブオミは、女ごころがわかるとね?」 「そりゃ、わからんくさ。けど、KIYOKOみたいな女子はアニメキャラクターによくおるタイプやけんね。想像で言いようだけたい」 「KIYOKOみたい、とはなんね?」 「覇気があってくさ、可愛くてくさ……」 「可愛い? あれが可愛かとね?」 「あげな小股の切れ上がった女子はそうそうおらんばい」 「へえー、そんなもんかいなね」    ゆーさくは意外におもいながら、部室の窓に近寄り、校舎脇のテニスコートに眼をやった。KIYOKOがテニスラケットをふりまわしながらテニスコートをところ狭しと走りまわっている。 「ぼく、その窓から、KIYOKOをときどき眺めようとよ」  ゆーさくはまさか、とおもって、ノブオミの肩ごしに、描きかけのイラストをのぞき込んだ。眉を吊り上げ、勝気な微笑を浮かべたポニーテールの女子が、ケント紙に描かれている。 「これって、まさか」 「そうたい、KIYOKOたい」  ゆーさくは、ぎょっとなった。にらんだとおり、ノブオミは油断ならぬおとこだとおもった。 「ゆーさくくん、君も本心は、KIYOKOが好きっちゃなかね?」 「好かん」 「ほんとね?」 「ほんとたい」  ゆーさくには、密かに想うひとがあった。家の向かいに住む、出戻りの佳奈子である。遥かに年上だが、母親のように甘えたくって仕方がない存在であった。 「そろそろ行かんといかん」 「きょうは塾の日やったね」 「うん」  ゆーさくは、これから小一時間バスに乗って、市の中心部にある進学塾に行くため、家に母の手づくり弁当を取りに帰らなければならなかった。 「じゃ、帰るけん」  ゆーさくは、ノブオミに別れを告げて部室を出た。太陽は傾きかけており、体育部の連中の濃い影が運動場にながくのびている。のびやかに跳んだり走ったりする生徒らを、ゆーさくはまぶしそうにみつめた。本来のじぶんは、塾なんかに通わずあっち側の世界にいるべきにんげんなんだ、というおもいが込み上げてくる。  校門を出るとき、校舎のまわりをランニングしてきた軟式野球部の連中と出くわした。部員のひとりがゆーさくのまえに立ちはだかった。 「おや、もう帰るとね?」 「うん、塾があるけんね」 「どこの塾やったっけか?」 「M塾」 「あー、あすこは厳しかもんね」  ゆーさくは、苦笑いを浮かべるしかなかった。その部員が走り去るうしろ姿を見送りながら、小学生のころはあいつよりおれのほうが野球はうまかったのにな、とゆーさくはおもった。 <4> 家路に急ぐゆーさくの足はおのずと、通学路の途中にある神社の鳥居のまえでとまった。KIYOKOが今週の日曜日の待ち合わせ場所に指定した神社だった。  ひと気がなく、来客といえば蜜蜂と小鳥くらいのその神社は、ゆーさくにとって安息の場所であった。社殿のうしろのちいさな森から吹き渡ってくる風の匂いを、ゆーさくは愛した。落ち葉や土の湿った匂い、樹皮や花の匂いやらが混ざり合った夏の雨上がりの風の匂いが特に好きなのは、なんのしがらみもなかった幼少期の郷愁を掻き立てられるからだった。  ゆーさくは、先週の土曜日の昼下がり、境内にある、ごつごつとしたさざえの殻のようなかたちのおおきな黒い石に腰掛けて、幽明を隔てる鳥居のむこうの陽だまりを眺めていた。おなじ学校の生徒たちが、鳥居のまえをにぎやかに通りすぎてゆく。だれもゆーさくが神社のうす暗がりのなかで憔悴した魂をなぐさめていることに気づかない。  やがて、テニスラケットを抱えたKIYOKOらの一群も通りかかった。KIYOKOのラケットケースのみが派手な赤色で、ひときわ目立っていた。取り巻きらはKIYOKOのご機嫌をとりながら歩いている。ゆーさくが彼女らをぼんやり眺めていると、それまでまっすぐに前方を見据えていたKIYOKOが、突如くるりと首をまわして、ゆーさくのいる境内の奥へと視線を走らせた。一瞬の出来事であったが、ゆーさくはKIYOKOにみつかった、とおもった。  案の定、翌週の月曜日の昼休み、教室のうしろの壁に、「女子が選ぶネクラな男子ベストファイブ」なるものが貼り出された。午前中の授業時間に、女子のみにアンケート用紙が配布されたらしい。ゆーさくとノブオミは同数で、ネクラ男子堂々の一位であった。  ノブオミが青い顔をして、ゆーさくのもとにすっ飛んで来た。 「ぼくはよかばってん、ゆーさくくん、恥ずかしかろ? ぼくがはがしちゃるけん」  神社の一件を知らぬノブオミは、じぶんのせいでゆーさくもネクラ男子呼ばわりされているとおもいこんでいる。 「よかよか、はがさんでも」 「なしてね? あのまんまでよかと?」 「よか」 「たしかに、そうたいね。じぶんたちではがしよったら、KIYOKOに負けたみたいでみっともなかもんね」  ゆーさくの内心はどうであれ、すくなくとも表面上は気に病むそぶりの無いことに、ノブオミはほっと胸をなでおろした様子であった。これがもとでゆーさくがじぶんによそよそしくなるのではないかと、ノブオミは怖れていたふうである。  ゆーさくは、鳥居のまえを離れると、足早に歩いた。母の顔が浮かぶ。時間に対して、異常に神経質な母であった。けれどもそれは、塾に遅刻するとかしないとかではなく、彼女のタイムスケジュールどおりにゆーさくがうごいているか否かが問題なのであった。 <5> 家にもどると、ゆーさくは二階にかけあがって、じぶんの部屋で私服に着替えた。時間にすこし余裕があったので、洗面所で髪形をととのえていると、母のとげとげしいことばが背後から飛んだ。 「早くせんね、色気づいてから。あんた、いまから塾に行くっちゃろ? そげなおめかしして、どげんするとね?」  母は、思春期のゆーさくにもっとも効き目があることばをあえて選択し、むき出しのまま、浴びせた。母のことばの暴力に比べれば、教室のうしろの壁に貼り出されたネクラ男子ランキング表など大したことではなかった。母の暴言は、ゆーさくが反抗しないことをいいことに、日増しにエスカレートしている。  小学生のころのゆーさくは、こんなにも母親に隷属的なむすこではなかった。ゆーさくの性格に変化が生じたのは、もともとべんきょう嫌いであったゆーさくが、入塾試験のために睡魔と闘った小学六年生のときであった。  有名進学塾には合格したものの、もちまえの天真爛漫さは消え失せ、十年も二十年も年を喰ったような顔つきになった。ゆーさくが急に老け込んで、すっかり元気が無くなったことを、母はじぶんへの恭順とかんちがいし、ますますべんきょう、べんきょうと言うようになった。  ゆーさくは、玄関で、母からまだ温もりのある弁当箱をうけとった。週にいちどだけ、授業が夜間にまで及ぶので、弁当が必要なのだった。  しかしだれもが、ゆーさくのように、母親の手づくり弁当を持参しているわけではなかった。スーパーの出来合い弁当やコンビニのおにぎりを食べている塾生もおおかった。ゆーさくは、じぶんに作り立ての弁当を持たせてくれる母の愛情は疑わなかった。むしろ、弁当箱のふたをあけるたび、ゆーさくは母の愛情を手にとるように感じた。  塾生らの面前で、ゆーさくをひどいことばでののしる塾教師でさえ、ゆーさくの弁当のおかずの彩りをみると、こんな出来の悪い塾生にも愛情をかたむけてくれる母親がいるのだということに気づかされるのか、良心の呵責の笑みを浮かべたりするのだった。  しかしゆーさくは、そんな母の愛情弁当が重荷であった。母が徹頭徹尾の悪人であったなら、どんなにじぶんは救われたであろうかとゆーさくはおもうのだった。  塾で母の弁当を食べる日は、家族と食卓をかこまなくても良いので、それがゆーさくはなによりうれしかった。父は焼酎に酔うと、ゆーさくに嬉々としてからんだ。  父のセリフはいつも決まっている。「おまえの人生はいまが崖っぷちやぞ」、「尻に火がついとうとぞ」。  父は大学の教員だが文才がなく、論文が書けないことを苦に病み、じぶんの不安をゆーさくにぶつけているだけにすぎないことをゆーさくは見抜いている。しかしゆーさくはあえてそれを父に指摘する気にはなれなかった。父を傷つけるのが怖くて、ただ、うつむいて、黙って聞き流しているだけだった。父からゆーさくがいびられているあいだ、母はゆーさくを助けることはなかった。  ゆーさくには、わかっていた。このかぞくのヒエラルキーが。このかぞくは、ゆーさくよりひとつ年下の、全国屈指の有名私立中学に通う弟を頂点に、父、母、ゆーさくの序列で成立している。弟には父も母も媚びることしか言わない。母は父の愛情を欲しがっているが、それが満たされず、ゆーさくに干渉することでその寂しさを穴埋めしようとしている。  だが、ほんとうに悪いのは、父だ。父のかぞくへの無関心が、かぞく全員に感染し、四つの孤立した魂が、ひとつ屋根の下でふれあうことなく同居しているようにゆーさくの眼には映るのだった。 <6>  弁当を塾に持っていく日のもうひとつの愉しみは、佳奈子とバスに乗り合わせることであった。  さきに乗車している佳奈子は、ゆーさくがバスに乗り込んでくると、わざわざ席を立って、ゆーさくが腰かけた後部の二人掛けのシートまで来てくれる。まれに車内が混雑していて、二人掛けのシートがふさがっているときもあったが、都心を抜ければ、乗客はほとんどいなくなった。ゆーさくが空いた二人掛けのシートをみつけると佳奈子も席を立ってきて、ふたりは肩を並べておなじシートに座り終点までバスに揺られていた。  ただし、佳奈子がいつもおなじ時刻のバスに乗車しているとは限らなかった。佳奈子が乗っていないときは、ゆーさくはバスを何便もやり過ごした。佳奈子がそのバスに乗っているかどうか、停留所に接近してくるバスをひと目みれば、ゆーさくにはぴんときた。恋をすれば、階段から降りて来る足音を聞いただけでそれが恋人のものかどうかわかると小説に書いてあったが、佳奈子への想いが恋かどうか、ゆーさくは判断がつかなかった。母親に甘えたくても甘えられないから、佳菜子に甘えようとしているようにもおもえた。  ゆーさくが気恥ずかしさから窓外に眼をむけていると、佳奈子が学校生活のことなどをぽつりと聞いてくる。それに対して、ゆーさくもぼそっと返事をする。やや間をおいて、佳奈子がふたたび、ぽつりとなにか尋ねる。ゆーさくもまた、ぼそっと答える。ゆーさくは、佳奈子が話しかけてくれるのを、ただ待っているだけである。ゆーさくにすれば、佳奈子のことばは、首筋に落ちてくるくすぐったい軒下の雨だれのようなものであった。ひさしにならんだ雨粒を見上げて、落下するのを待ち遠しくおもう子どものような心持ちであった。  窓外から都会の灯が消えていき、辺り一面が夜の闇のなかに沈むころ、乗客は佳奈子とふたりだけになる。ゆーさくは、佳奈子と銀河を旅行しているような空想にふけったりして、憂鬱な現実を忘れたりするのだった。  しかし、そんなときでも、ゆーさくのこころは晴れなかった。加奈子の包容力につつまれ、世界がじぶんの味方をしているように感じられているあいだも、ひとりしずかに孤独を噛みしめている。  生きているかぎりこころが晴れない、そんな考えがいつしかゆーさくの習い性になっていた。 <7>  佳奈子は二度、結婚に失敗している。都会で働いているあいだ、実母が幼いむすこの面倒をみている。なんの仕事に就いているのか、中学生のゆーさくには見当もつかなかったが、スーツをいつもきちんと着込んで、堅い会社に勤めているふうであった。 「真面目ぶっとんしゃあけど、二度も離婚しとっちゃけんね。あのひとになんか落ち度があるとよ、裏の顔があるとよ」  ゆーさくの母は、そんないやらしい言い方で、佳奈子への悪口をたびたび言ったが、それを聞くたび、ゆーさくは胸が痛んだ。  ゆーさくはその日、いつか佳奈子に尋ねたかったことを、勇を鼓して聞いた。 「ぼくがお母さんに叱られてる声って、聞こえてますか?」  佳奈子はしずかに、うなづいた。心づもりをしていた返答であったが、ゆーさくは恥ずかしさで胸があふれ、顔がかっと熱くなった。もう佳奈子とはおなじバスに乗れない、とおもった。  いっしょに終点でバスを降りて、家まで歩きながら、ゆーさくは気もそぞろだった。佳奈子におもいきって尋ねたことを悔やんでいた。そんなゆーさくの胸のうちを知らない佳奈子は、ふたりの家のまえまで来ると、いつものように笑顔で、「おやすみなさい」と言った。佳奈子が門扉をあけて家のなかに消えて行くのをみとどけたゆーさくは、じぶんも家のなかに入った。  ゆーさくは玄関で靴を脱ぐと、まっすぐに二階のじぶんの部屋にむかった。玄関のすぐ左手の和室は母の寝室で、その真上がゆーさくの部屋だった。  家のなかはしんと静まり返っている。この時間には母はもう眠っていることがおおかった。二階に上がると、父と弟の部屋の明かりが廊下にこぼれていた。  ゆーさくはじぶんの部屋に入ると、照明を点けずに、南の窓へと近寄った。ほそい路地を挟んで、佳奈子の家がある。正面の二階の幅広の出窓が、佳奈子の部屋だった。しばらく窓辺にたたずんでいると、佳奈子の部屋に明かりが灯って、ゆーさくの顔をほのかに照らした。佳奈子の部屋のカーテンはすこしあいていて、佳奈子が部屋のなかを移動するのがみえた。ゆーさくは息を殺してそれを観察していた。佳奈子の家は猫を飼っている。その猫は窓際を歩きまわる癖があって、どうかするとその猫がわずかにあいたカーテンをさらに押しあけてくれることがあった。ゆーさくは猫が現われるのを期待して待ったが、猫よりさきに部屋の明かりが消えて、佳奈子は一階に降りてしまった。  あきらめたゆーさくは、こんどは西の窓辺に立った。そこからは、斜向かいにKIYOKOの家がみえた。KIYOKOの家はゆーさくの家より高台にあって、ゆーさくの家を見下ろす格好になっている。明かりの灯った二階のちいさな格子窓がKIYOKOの部屋であった。  ゆーさくは、母になんども、いまのレースのカーテンとはべつに、厚手のカーテンを部屋に付けてくれるよう頼んだが、母はてんで取り合ってくれなかった。ゆーさくの部屋は、KIYOKOの部屋から丸見えなのだ。小学生のころなら、KIYOKOに「壁に足ばかけて逆立ちしよったね」などと言われても、「それがどげんしたとや」と気にも留めなかったが、中学生ともなればそうはいかなかった。KIYOKOは未だに、ゆーさくの部屋ののぞき見をやめないのだ。  KIYOKOの母親もさすがに娘ののぞき癖を見かねて、ゆーさくの母に、「うちの娘がいくら注意してもやめんとよ、そちらで遮光のカーテンば付けるなりしてくださらんね」とお願いした。ゆーさくは母からそのことを聞いたが、母は「なんば隠すことがあろうかね」と言って一笑に付すのだった。  ゆーさくは、KIYOKOののぞき見を警戒して、部屋の明かりを点けずにパジャマに着替えると、ベッドの上に仰向けになった。KIYOKOの部屋の格子窓の明かりがレースのカーテン越しに月のようにみえた。 <8>  眼をとじてしばらくすると、 「ゆーさくぅ、ゆーさくぅ」 と母のゆーさくを呼ぶ声が、階下でした。しばしばこうした夜があるのだ。母はよく悪夢にうなされる。助けを呼ぶとき、父でも、弟でもなく、ゆーさくの名を呼ぶのである。  ゆーさくは、母のその調子の良さが憎らしくってたまらなかった。出来ることなら耳をふさいで、母を無視していたかった。けれども、その声は未練がましく、哀調を帯びていて、冥界からおにばばあが手招きしているようで、ゆーさくの同情をたぐり寄せるまでやみそうになかった。  父がゆーさくの部屋に入って来た。 「おい。母さんが呼んどるじゃないか」  ゆーさくは返事をしなかった。 「おい!」父は声を荒げた。「母さんのとこにはよう行ってやらんか」  そげん心配ならじぶんで行けばよかやんね! ゆーさくは叫びだしたかったが、胸の奥底にことばを呑み込んだ。ゆーさくはしぶしぶベッドから起き上がった。階下におりて母の寝室に行き、ふとんをかぶっている母に話しかけた。 「どうしたと?」 「ネズミが、走りまわりようとよ、そこらじゅうを、チューチューいうて」 「ネズミがね? 蜘蛛じゃなかとね? このあいだは蜘蛛やったろうが」 「ネズミたい、ネズミたい、はよう捕まえておくれ」 「ネズミなんか、どこにもおらんばい」 「おるよ、おる」 「おらんて」 「そこらで鳴きよったとよ、チューチューって。さっきわたしの髪の毛のなかにもぐりこんで来て、髪ばくしゃくしゃッとして出ていったとよ」  ゆーさくは、黙りこくった。寝惚けた母が、落ち着くのを待つより仕方なかった。 「あー、やっぱりあんたの言うたごと、夢やったかもしれんばい」 「そうたい、夢たい」 「ふあー」母は、安堵のため息をついた。 「行ってよかね?」 「よかよ」  母は、「ありがとう」を言わないひとであった。このかぞくのだれもが「ありがとう」を言わなかった。  ゆーさくが母の枕もとから離れようとすると、母が呼びとめた。 「あんた、きょうの試験の出来栄えはどげんやったとね?」 「良くなかった」 「何番ね?」 「尻から四番目」  毎回塾では、小テストがあり、その順位に母は一喜一憂した。学校では優等生のゆーさくも塾では劣等生であり、じぶんに対する学校と塾での評価の落差に、ゆーさくの自意識は股裂きにあっていたが、それにもましてゆーさくを辛くさせたのは、塾の成績が下がるたびに母が当事者のゆーさく以上に激しくしょげかえることであった。  つめたい真冬の晩、こんなことがあった。 塾の建物から出てくると、母が珍しくクルマで迎えに来ていて、暗がりにたたずんでいる。「こっちこっち」と、無言でおいでおいでをしている。ゆーさくはいやな予感を抱きつつ、母の運転するクルマの助手席に乗り込んだ。  母子はクルマで移動中、ずっと沈黙し合ったままであった。小テストの順位は聞かずとも、母にはわかっているらしかった。やがてクルマは神社のまえで停車した。通学路の途中にある神社であった。  母は鳥居の下でパンプスを脱いで裸足になると、鞄から百円玉が山盛りはいったビニール袋をとりだし、それを左手ににぎりしめた。そうして、拝殿と鳥居のあいだをぐるぐると、小走りに駆けまわりはじめた。  母は、拝殿のまえに来るごとに、ビニール袋のなかから百円玉をつまみだし、賽銭箱に投げ入れる。それから、鈴をじゃらんじゃらん鳴らして柏手を打つ。ゆーさくがナマケもんにならんよう、ナマケもんにならんよう、どうぞ神様ゆーさくがナマケもんにならんよう、と祈っている。 「成績のことなんぞどうでもよかです、ただただゆーさくがナマケもんにならんよう、ならんよう」  母の祈りが、あざとくゆーさくの耳にも聞こえてくる。凍てついた参道を、エゾカモシカのように大きな白い息を吐きながら、母はなんどもなんどもお百度を踏んだ。そんな母の狂った光景を眺めているゆーさくの瞳にはいつしか涙がとめどなくあふれているのだった。  ふとんから顔を出した母は、ゆーさくにおだやかな声で、問うた。 「あんた、ナマケもんになっとりゃせんね?」 「なっとるかもしれん」 「父さんが言いよったろうが。あんたの尻には火がついちょるって」 「うん」 「弟に負けてどげんするとね? 口惜しくなかとね? こんやは眠らんでべんきょうせんといかんね」 「わかってる」  ゆーさくは、じぶんの部屋にもどった。机のまえに座ってみたが、気が散っていっこうにべんきょうに集中できない。座禅の真似事をやってみたが、効果はなかった。それよりいろいろの気疲れがどっと襲ってきて、猛烈な眠気をもよおした。ゆーさくは、机に突っ伏した。泥のように二、三年眠りこけたかった。  ゆーさくは、ふっと、眠たげな顔をもたげた。ふつふつと、母への怒りが込み上げてきた。母の眠りを邪魔してやろうとおもった。塾のテキストをひっつかむと、階下へ降りて行った。ふすまをあけ、寝息を立てている母の枕元にどっかとあぐらをかいて座ると、母の顔をのぞき込んだ。ひとにべんきょう、べんきょうと言いながら、よくまあ、じぶんだけスヤスヤと寝ていられるものだ、とゆーさくはあきれた。 「よう、この問題おしえてくれよ」  出し抜けに声をかけられ、母は吃驚して白目をむいた。顔を左右にふって、声のしたほうをさがしている。 「この問題がわからんとたい」 「なんね、急に」 「この問題たい、ちょっとおしえてつかあさいよ」  母は息苦しそうに顔をしかめると、心臓のあたりを手でおさえた。 「寝とったにんげんにいきなり声ばかけてから、心臓がパクパクしようやないね。わたしば殺す気ね」 「この問題がどうしてもわからんとたい。理科は得意って言いよったろうが」  母とゆーさくの言い争う声を耳にして、ちょうど水を呑みに台所に降りて来ていた父が部屋に入ってきた。 「なんしようとか、おまえは。時間を考えんか。もう寝ろ!」  ゆーさくは、涙が込み上げそうになった。じぶんの部屋にもどると、ベッドに倒れ込んだ。頬をしぜんに、涙がつたった。 <9>  KIYOKOとの約束の日曜日がやって来た。未明からしとしと降りだした雨は、家を出るころにはさっぱり晴れわたり、きれいな虹が神社の森の上にかかった。  KIYOKOはもう来ていて、ゆーさくが普段椅子代わりにしている、ごつごつとしたさざえの殻のようなまっくろい石の上に足を組んで座っていた。ゆーさくはいたるところに生まれた水溜まりをよけながら、KIYOKOに近づいた。 「用件ってなんや?」 「あんた、お袋さんに虐待されとうらしかね」 「だれが言うた?」 「あんたのお袋さんが近所で言いふらしようとよ。お袋さんは虐待とはおもうとらんらしかばってん、うちのお母さんはあれは虐待ばい、ゆーさくくんが可哀想ばいって言いよる」  ゆーさくは心なしか、うつむいた。 「あんたんとこのお袋さん、なんでもうちのお母さんに話しようとよ。あんた、えっちな本ば部屋にぎょうさん隠し持っとったらしかね」 「いかんとや」 「いかんとは、言うとりゃせん。あんたがかわいそか気がしてくさ。うちのお母さんも、どこの世界にむすこのえっちな本ば部屋の窓から投げ捨てる母親がおるねって、あんたば憐れみよったよ。あんた、泣きながらそれば拾いに行ったらしかね。あんたのお袋さん、笑いながらうちのお母さんにしゃべりよったらしかよ」 「おおきなお世話たい」  ゆーさくは、KIYOKOがなんのたくらみがあって母の話を持ち出すのか真意をはかりかねたが、それをネタにゆーさくになにか要求を呑ませようとするのなら、KIYOKOとは金輪際絶交だ、とおもった。ゆーさくは、意を決して立ち去ろうとした。 「ちょっと待ちんしゃい。あんたのヒミツ、まだあるっちゃけどね。こっちのほうが、凄かヒミツたい。これば聞いたら、あんた、もううちに逆らえんくなるかもしれんばい」 「おまえ、おれにカマばかけよっちゃなかね?」 「うちは、そげな暇人じゃなかよ。あんた、よーく胸に手をあてて考えてごらん。なんか罪ば犯しとらんね?」  ゆーさくには、なんのことやら想像もつかなかった。 「おもいあたるふし、なかね?」 「なか」 「ほいじゃあ、言うちゃろう。あんた、向かいの家の佳代子さんの部屋ば、毎晩のごと、のぞき見しよろうが?」  ゆーさくは、「あッ」とおもわず、声を発した。 「あたし、知っとっちゃけんね」 「どうして、おまえが、そげなこと知っとうとや」 「あんたの部屋、うちの部屋から丸見えなんよ、忘れとったね? あんたが故意に部屋の明かりば消して、佳奈子さんの部屋ばのぞき見しようの、うちはこの眼でしかとみとっちゃけんね」 「おまえのほうこそ、おれの部屋ばのぞき見しようやないか」 「ふふん。女が男風呂ばのぞいてもね、ケーサツには逮捕されんとよ。男が女風呂ばのぞいたら、犯罪ばってんね。そんくらい、あんただって知っとろうもん」 「おれば脅して、おまえはいったいどげんしたいとや」  KIYOKOは、地面に落ちていた小枝を拾い上げると、それをぴしりとへし折った。 「あんたのヒミツばっかり言うとっても不公平やけん、うちのことも話さんといけんね」  KIYOKOはふいに、怒りを抑えた表情をゆーさくにむけた。 「うちもね、お母さんが好かんとよ」 「そりゃあいったい、どういうことね?」 「お母さんには、男がおるったい。その男が、気持ち悪か男でくさ、お母さんのまえでは紳士ぶっとんしゃあっちゃけど、うちとふたりきりで家におるときは、いやらしか眼つきでうちばジロジロみるとよ」  KIYOKOは、さらに語勢をつよめて、つづけた。 「うち、ちっさいころから、お母さんの着せ替え人形やったとよ。じぶんの好きな色の帽子とか服とか買ってもらったこと、いちどもなかと。髪形とかも、ぜーんぶお母さんが決めてきたとよ。うちの好みとか、お母さんはぜんぜん無視たい。そもそもお母さんは、うちに無関心なんよ。お母さん、そとづらがいいけん、そげなひとにはみえんかもしれんばってんね」  KIYOKOの話を、ゆーさくは、にわかには信じられなかった。KIYOKOの母親はでっぷりと太っており、お世辞にも美人とはいいがたかったけれども、明るく朗らかで、だれからも好かれそうなひとであった。とてもじぶんの嗜好を押しつけるような、我のつよい母親にはみえなかった。 「小学生のころ、うちがいっつもニコニコしとったからって、うちが幸福やったとはおもわんとってよ。いまもそうたい。クラスでいちばんのネクラは、うちかもしれん。うちはじぶんで、そうおもっとる。うち、お母さんを困らしてやりたかとよ。あんただって、お袋さんば困らしてやりぃよ」  ゆーさくは、太陽がぎらついている天を仰ぎ、深く息を吸い込んだ。入道雲がまばゆい蒼い空にせりだしている。湿っていた地面も乾きはじめて、雨上がり特有のあの懐かしい匂いが、生ぬるい風にまじって吹いてくる。やるせなさで、ゆーさくは胸がしめつけられた。 「うち、いっそのこと、死のうとおもうとよ」  KIYOKOは真剣なまなざしで言った。 「ゆーさくくん、うち、死んでも、よかろうか?」 「よかろう」 「ほんなら、いっしょに死んでくれる?」 「よかよ」 「あー、よかった。あんたなら、必ずそう言ってくれるって、うち、信じとったとよ。善は急げたい。そんなら、どげんやって、死ぬ?」  KIYOKOは息を弾ませて聞いた。 「あれたい」  ゆーさくは、境内にそびえ立つムクロジの樹を指さした。 「あの樹の太か枝に首ばくくって、死んだらよか。そうすれば、ふたりとも、神さまになれる」 「うちら、神さまになれると?」 「なれるくさ。親に圧殺されかかっとるおれたちのたましいは、純粋やもん。このやしろの神様は、おれたちをみごろしにするわけなか」   ゆーさくの力づよい返事に、KIYOKOは胸のつかえがおりたように晴れやかな表情になった。そうして、ゆーさくを頼もしく感じているふうであった。 「あの樹の枝のどれかに、うちら、ぶーらぶら、仲良くぶら下がるとよね?」 「そうたい」  KIYOKOはゆーさくの手をとって、ムクロジの樹の下まで行った。ふたりは樹を見上げて、ロープを渡す枝を物色した。 「あれが良かっちゃない?」  ゆーさくが言うと、KIYOKOは実際にさわってたしかめたいと言いだした。ゆーさくは、KIYOKOを肩車した。 「どうね?」 「うん、この枝ぶりなら、だいじょうぶたい」 KIYOKOはたかぶった声で、太鼓判を押した。  地面に降り立ったKIYOKOは、ゆーさくの二の腕を鷲づかみにするとぐいっと引き寄せて、じぶんの唇をゆーさくの唇に圧しあてた。ゆーさくの歯は、がちがち鳴った。KIYOKOの顔をこんなにも間近でみたのは初めてであった。小鼻にほくろなんかあったっけ。見慣れているはずのKIYOKOの顔が、やけに新鮮にみえた。  KIYOKOは、いちどだけのキスじゃ、物足らない様子であった。唐突に、ゆーさくの顔面から黒ぶち眼鏡をむしり取った。いきなり下着を剥ぎ取られたようでまごつくゆーさくに、KIYOKOは泰然と、二回目の口づけをした。 「あんた、眼鏡ばとると、印象が変わるもんね。やさおとこと言えば聞こえはよかばってん、気の弱そうな顔つきになるもんね。けど、どっちの顔もあんたやもんね。うちは、どっちも好いとうとよ」  ふたりの顔は、たがいに引き寄せられ合って、三回目の口づけをした。 「いつ死ぬと?」 「どうせ死ぬとなら、はやかほうがよかろう」  ふたりはムクロジの樹の下で唇を重ね合いながらしゃべり、死の決行日を、来週のきょうと決めた。 <10>  その日のゆうがた、ゆーさくは、もうじきこのかぞくともオサラバするとおもうと家族団欒の夕餉が苦にならないばかりか、食卓の上を薫風が吹きすぎるような心地良さすらあった。  こんやも父は、焼酎に酔っぱらって、ゆーさくにねちねちとからんでくる。 「おまえの人生だから好きにすればいいが、おれたちかぞくを巻き込むな。他人に迷惑をかけるな」  ゆーさくは、くつろいだ気分で、父のおしえを聞き流せた。  弟の、ゆーさくを小馬鹿にしたような態度も、もはや名残惜しくさえあった。  KIYOKOとの心中がバレたわけではないだろうけれど、母は心なしか、ゆーさくにやさしかった。しかし気を許してこころをひらけば手痛いしっぺ返しを喰らうのは日常のことであったので、とくに感情をうごかされることはなかった。  ご飯を食べおわると、ゆーさくはそそくさと二階に上がった。佳奈子に別れを告げなければならなかったからである。家族には風邪っぽいので早めに寝るから部屋には入って来ないようにと言い置いた。  ゆーさくは、いつものように部屋の照明を落としたまま、南の窓ぎわに立った。佳奈子の部屋は薄手のカーテンはしまっていたが、厚手のカーテンは半開きになっていて、佳奈子が座卓に図鑑のようなものをひろげ、なにか書き物をしている姿が透けてみえた。  佳奈子のひざの上には猫がのっている。佳奈子はときどきお菓子に手をのばしたり、鼻をかんだりしている。佳奈子の日常をのぞき見することで、ゆーさくはなんど窒息しかかった魂に精気を吹き込むことが出来たであろうか。ゆーさくはこころのなかで、佳奈子に感謝とさよならを告げた。  それから、部屋の照明を点けると、ゆーさくは西の窓のレースのカーテンを開け放った。ともに心中するKIYOKOにはもう隠しごとはなかった。なにをのぞかれても平気であった。KIYOKOの部屋の格子窓は明かりが灯っていた。クラスメイトの女子にあてて遺書を書いたり、部屋の片づけをしたり、死出の旅路の支度をしているにちがいないとゆーさくはおもった。  ゆーさくは、KIYOKOに恋心を抱いているじぶんに気づいた。恋路の果てに、心中するような心持ちになっていた。  KIYOKOの部屋の格子窓に黒い人影が貼りついた。ゆーさくとKIYOKOらしき人影は、しばらくみつめ合っていた。死をまえにして、KIYOKOもじぶんとおなじように、明鏡止水の心境であるにちがいないと確信したゆーさくは、幸福に満ち足りた気持ちで部屋の照明を消し、ベッドのなかにもぐりこんだ。  ゆーさくはその晩、興奮からなかなか寝つけなかった。 <11>  KIYOKOとの心中のことは、はじめからノブオミにだけは告白しておこうとこころに決めていた。ノブオミはああみえてわりかし口の堅い男なのである。よもや裏切って、教師や親にタレこむことはあるまい。 文芸部の部室で、ノブオミに別れを告げると、ノブオミは案外冷静であった。 「ほんとに死ぬとね?」  疑うような眼ざしをゆーさくにむけた。 「死ぬよ、死ぬ。ほんとに死ぬ」 「ゆーさくくんが死ぬのはほんとうかもしれんばってん、KIYOKOが死ぬとはとうていぼくにはおもえんね」 「というと? おれが枝にぶら下がって身悶えしている横で、KIYOKOはじぶんだけヒモば断ち切って逃げだすってことね?」 「いや、そうじゃなか。KIYOKOもしょせんおなごやけんね、いっときの熱に浮かされただけかもしれんよ。死の官能的誘惑の虜となって、ゆーさくくんを道づれに死にたいと口走ったものの、もう死ぬ気はなかっちゃないね?」  ゆーさくは、不安にかられはじめた。 そんなゆーさくを尻目に、ノブオミはアニメのイラストを描きだした。KIYOKOが死なない以上ゆーさくが死ぬわけない、と決めてかかっているような態度であった。  はしごを外されたような気分におちいったゆーさくは、とってつけたようにノブオミに言った。 「おれは、おまえのこと、こっそり尊敬しとうとばい。じぶんの物差しばちゃんと持っとうけんね」  ノブオミは表情を変えずにケント紙から顔を上げた。 「ゆーさくくん、なんかぼくのこと勘ちがいしとりゃせんね? ぼくは他人の眼ば気にせんほど強かにんげんじゃなかよ。オタク扱いされて、みんなにろくに口ばきいてもらえんで、いっつもひとのおらんとこで泣きようとばい」  そう言うと、ノブオミはまたイラストを描きだした。Gペンでケント紙をカリカリとひっかく音が、ゆーさくをさらに心細くしていった。ノブオミは顔を上げずに、ぶっきらぼうに言った。 「みんな気の弱か動物たい」  ゆーさくは、ノブオミのことばに、打ちのめされた。  そうして、部室の窓からテニスコートのほうをみつめた。KIYOKOはテニスコートのそとで、ひとつ先輩の男子の陸上部員となにやら親しげに話をしている。  ゆーさくは翌日、KIYOKOとふたりきりになれる機会をうかがったけれども、ゆーさくがKIYOKOに近づこうとすると、KIYOKOは身をひるがえして、反対方向に歩き去った。  ゆーさくは学校の帰り道、KIYOKOとことばを交わせなかった失意から、KIYOKOの母親が営む薬屋に立ち寄った。 「あら、ゆーさくちゃん」 薬屋の引き戸をあけると、白衣を着たKIYOKOの母親が明朗な声でゆーさくを迎えた。 「こんにちは」  ゆーさくは、お辞儀をした。KIYOKOの母親の背後の陳列棚を眺めていると、 「なんが欲しかと?」  KIYOKOの母親は聞いた。 「スッとする目薬ありますか?」 「これ、どうね? 受験生がよう買っていきよんしゃあばい」  KIYOKOの母親は陳列棚から商品をつまみあげ、ゆーさくに手渡した。 「じゃ、それください」  ゆーさくが代金を支払うと、KIYOKOの母親はお釣りを数えながら、 「KIYOKOがいつもお世話になっとうね。あの娘(こ)、気がつよかけん、ゆーさくちゃんにめいわくばっかりかけとりゃせんね?」 と言った。 「そげなことなかですよ」 「それならよかばってん。仲良くしてやってつかあさいね」 「KIYOKOちゃん、なんかぼくのこと言いよったですか?」 「なんも。あの娘(こ)、さいきん親と口きかんくなったけんね。なん考えとうとか、さっぱり解からんとよ」 「そうですか」  ゆーさくは、そそくさと薬屋を出た。KIYOKOに関する手がかりはなにも得られなかった。ゆーさくはがっかりしながら、家に帰った。  ゆーさくは家で私服に着替えると、バス停にはむかわず、神社のほうへと歩いて行った。どうせ死ぬっちゃけん、塾なんかに行くのはやめようとおもった。加奈子とも、もうおなじバスには乗り合わせたくなかった。  けっきょく、KIYOKOとはいちども心中の打ち合わせが出来ぬまま、決行日の日曜日がめぐって来た。  あさから降りだした小雨は昼になってもやまなかった。ゆーさくは傘をさしながらムクロジの樹の下でKIYOKOが来るのを待ちつづけたが、KIYOKOは約束の時間になってもついに現われなかった。(おわり)
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