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すずの一日は、母と朝食を作ることから始まる。
朝は決まって米飯。主菜は卵焼きや焼き魚、副菜は胡麻和えや酢の物といった、純和風の献立だ。
今朝の献立は、米飯にしじみの味噌汁、それから、白菜の浅漬けに昨夜の残りのきんぴらごぼうである。
本日十二月二十四日はクリスマスイブだが、月宮家の食卓は相も変わらず日本色で彩られていた。
母と二人で座る、四人掛けのダイニングテーブル。もともと母とは隣同士で座っていたが、父が亡くなってからは対座する形となった。顔を合わせて食べたいという、母のたっての希望だった。
現在母が座っているのは、父が生前座っていた椅子。二人だけの食卓は、早いもので、もう七年になる。
「冬休み、いつからだっけ? 明後日?」
チンッ、カチンッと、食器に箸がぶつかる音の合間。
母——しほりの問いかけに、すずはこくりと頷いた。
「いつまで休みなの?」
『六日の月曜まで』
「そっか」
『お母さんは? 仕事納めいつ?』
「二十八日。今週の土曜日まで。みんな部活があるからね。怪我しちゃうといけないから、一応保健室は開けてるの」
『仕事始めは?』
「六日の月曜日。その日はもしかしたら、帰るのいつもより遅くなっちゃうかも」
わかった、と再度頷き、ここで会話はいったん終了した。
母との会話では主に手話を使用しているが、食事中は右手に箸を握っているため、左手だけで簡易なやり取りをしている。どうしても長くなるときは箸を置く必要があるけれど、たいていの場合は片手、もしくは首を振れば成立するのだ。
声が出せなくなったとき、手話での会話を提案したのは母だった。支援学校に勤務した経験のある母は、手話をほぼ完璧に理解できていた。その経験を生かして娘に手話を勧め、教えたのである。
「今日は千鶴くんと会うの?」
次の会話は、朝食を食べ終わったあとに始まった。
栗色の髪を一つにまとめながら母が尋ねる。娘よりも少し短い、肩までのセミロングヘア。それを左耳の下で緩くゴムで束ねると、上から冬らしいボア生地のシュシュで二重にくくった。
髪の色をはじめ、薄茶色の瞳も鼻の形も、何もかもが娘と瓜二つ。すずと姉妹に間違われるほどの童顔で、かつ、天然である。
すずが千鶴と交際していることは、付き合い始めた頃からすでに知っていた。すずを家まで送ってくれた際、何度か話したこともある。
初対面で、「どうしよう。お母さん、英語話せない……」と、本気で青ざめたしほりにすずが赤面したという珍事は、千鶴のお気に入りエピソードだ。
『今日、千鶴くんバイトなの。明日は一緒に過ごす予定』
母の質問に、すずはふるふるとかぶりを振った。
本日、千鶴は午前中の講義が終わるとすぐに、レストランへ赴くことになっている。すずが受講している講義は午後からなので、残念ながら顔を合わせるタイミングはない。仕方がないとわかっていても、やはり内心は曇ってしまう。
「そうなんだ。千鶴くん、ほんっとかっこいいわよねー。バイトって、たしか叔父さんのフレンチレストラン……だったっけ?」
『そう』
「叔父さんって、お父さんのほうの? それともお母さん?」
『お母さん。フランス人とのハーフなんだって。おじいちゃんが日本人で、おばあちゃんがフランス人って言ってた』
「へー。千鶴くんのお父さんは? 日本人?」
『ううん、スコットランド人』
「スコッ……え?」
ここまで実にテンポよく会話をしていたが、最後の返事が完全に予想外だったらしく、しほりは目をしばたかせた後に閉口した。スコットランドが世界地図のどこに位置するか、もちろん知っている。だからこそのリアクションだった。そんな母に、『今は日本人だけどね』と、すずがこともなげに付け加える。
「なるほどだからあのルックスなわけね」
頭のてっぺんから爪先まで、整い過ぎているほどに整っている千鶴。〝眉目秀麗〟とは彼のためにあるような言葉だ。加えて文武両道と、どの角度から凝視してみても非の打ち所がない。
そんな彼にますます興味を抱いてしまった母の質問は続く。
「千鶴くんって、専攻してるのは何なの?」
『理学療法』
「へー。理学療法士さん目指してるのかしら」
『たぶん』
「理学療法士さんも、大変だけど、とっても素敵なお仕事だからね。千鶴くん、優しいからぴったりだと思うわ」
やけに納得したように、しほりは「うんうん」と頷いた。理学療法士がどういう職種であるかは、しほり自身よく知っている。懇意にしている理学療法士も何人かいる。皆等しく立派なプロフェッショナルで、患者の痛みに寄り添い、前に進めるよう日々懸命に支えている。
『……そうだね』
母のこの言葉に、すずは同意を示した。
母の言うとおり、だと思う。千鶴は賢くて優しい。濃やかな心遣いのできる、素敵な人だ。……大好きな人。
だが、すずは、千鶴がときおり浮かべる憂愁の表情が気にかかっていた。
ふとした瞬間に見せる表情。それも、進級や専攻の話になったときに、ほんの一瞬だけ。
気にかかっている。でも、聞けない。どんなふうに聞けばいいのかわからない、というのが正直な気持ちだ。
ただでさえ、会話をするのに手間をかけさせてしまっているのだ。そのうえ、おそらくセンシティブであろう内容を聞かせてほしいだなんて、そう簡単に言えるはずがない。
もどかしい。
上手く話せない自分に、腹が立ってたまらない。
ぐつぐつと煮立つ黒い感情が吹きこぼれたのは、その日の夕方のことだった。
五限目の授業が終わって外へ出ると、すでに明々と街灯がともっていた。薄明の空に低く落ちる厚い雲。冬の夜は、訪いが本当に早い。
風が冷たい。痛いほどに。
そういえば、明日の夜から明後日の朝にかけて、今シーズン初の降雪が見られるらしい。お馴染みの情報番組で、お天気キャスターのお姉さんが「ホワイトクリスマスになるかもしれません」と、いつもの調子で明るく言っていたことを思い出す。
千鶴と初めてともに過ごすクリスマス。できれば雪を一緒に見てみたい。
美味しい夕食を食べて、プレゼントを渡して、カードを添えて……笑って過ごしたい。
そんなふうにひっそりと心を温めながら、帰路につくために正門を目指した。
「あ。ねえねえ、アレ見て。千鶴の彼女だよ」
不意に、少し離れた場所から、三人の女子の会話が聞こえてきた。
全員看護学科ではないけれど、見覚えがある。彼女たちは、千鶴の元取り巻きたちだ。
三人は、すずとの間に距離があるのを、すずが声を出せないのをいいことに、わざとすずの耳に入る大きさで会話を続けた。
「ちょっと可愛いからって調子に乗り過ぎじゃない」
「つーか千鶴可哀想だよね。一方的に喋らされてさ」
「そうそう。あんま喋るの好きじゃないのにね」
これだけ言うと満足したのか、きゃらきゃらと笑いながら、愉しそうに去っていった。笑えるものなら、言い返せるものなら、「やってみろ」と言わんばかりに。
『……』
悔しかった、とても。
大学に入るまでも、数え切れないほどの嫌味を言われてきた。涙を流したことだって、一度や二度じゃない。
けれど、過去に受けたどんな仕打ちよりも、今彼女たちから受けた言葉が悔しくて苦しくてたまらなかった。あんなふうに一方的に言われて立ち去られてしまえば、何も返すことができない。
感情が、体の奥底から迸る。どんなふうに蓋をして抑え込めばいいのかわからなかった。
こんなところで、泣きたくなんかないのに。
『……っ』
腹が立ってたまらない。
しかし、何よりも腹が立ってたまらないのは、自分自身に対してだ。
言い返せなかったことじゃない。彼女たちの言葉を、自分の中で否定できなかったことに対して、すずは泣きそうになっていたのだ。
千鶴の気持ちを疑いたくはないし、彼のことを信じている。自分と同じだと言ってくれた彼の気持ちを、彼との関係を、大切にしたいと思った。
それでも、どうしても考えてしまう。自分なんかが、千鶴のそばにいてもいいのかと。千鶴は、自分なんかと一緒にいて楽しいのかと。
自分は、千鶴の大事な時間を、ただ奪ってしまっているだけなのではないかと。
すんと空気を吸い込めば、鼻の奥がじんじんした。
冷気のせいなのか、それとも涙のせいなのか……何もかも判然としないまま、すずは静かに歩き出した。
頬に触れた風は、なぜかとても痛かった。
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