ひよこ

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 初めて受け持たせてもらったのは磯部(いそべ)さんという名の、私のお母さんよりもちょっと年上の女性だった。彼女は私の名前なんてとっくに覚えているくせに、新人の私をいつだって「ひよこちゃん」と呼んで可愛がってくれた。  受け持ちの患者さんに対して他の患者さんとどう違う関わりをすればよいかとか、そんな難しいことはまだわからなかった。ただ私は、自分の名前がベッドネームに書かれたことに親しみを持ち、丁度就職と共に一人暮らしを始めた心細さもあってか、仕事の後にはよく磯部さんの病室に立ち寄った。  自分の勤務時間には他愛のない話なんてする時間はない。だからそういう話をしたければ、時間外にするしかなかった。 「ひよこちゃんは、そろそろ点滴とか採血もできるようになるの?」  ある日の夕方、磯部さんが言った。私が点滴や採血になると他の先輩に変わるのを知っていたからだと思う。 「んー。今模型で練習中です。すごいんですよ、血管に針が当たるとちゃんと赤い水が出てくるんです」 「いくら良くできた模型でも、やっぱり生身の人間とは違うわよ。私はひよこちゃんのためならいくらでも腕貸すんだけどなあ。私が練習台になりたいって言ってもダメなの?」  病衣から覗く細い腕を見せながら、磯部さんが上目遣いで私を見た。 「さすがにダメですよ、ちゃんと先輩の許可が下りてからです。私もまだクビにされたくないので」 「そっか。ひよこちゃんのお世話係の先輩、ちょっと怖いしね」  磯部さんはいたずらっ子の様に声をひそめた。確かに私のお世話係――プリセプターの先輩は、同期の子のプリセプターの中でも一番厳しいと思う。でも、その仕事ぶりは新人の私から見ても無駄がなくて一番だから、学びは多い。  ただ、気軽に話しかけることもできない。二年目さんみたいにご飯に誘ってくれたり、しょうもない話に付き合ってもらえたりする先輩だったらよかったのにと思ってしまうこともある。
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