手記10 日常

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「尚美を傷つけないで!」  泣きながら格闘しているところに、先生が戻ってきました。  体が斜めになっている私の異常な様子に驚いた先生は、「楓!」と、下の名前を呼びました。  その声で全ての霊がパッと消えました。  私を引っ張っていた根本の霊も消えたので、中途半端な体勢だった私は、後頭部から落ちて床に転がりました。  先生が駆け寄って抱き起してくれました。 「大丈夫か!」  呼吸出来たことが嬉しくて、体の痛みは全く気になりませんでした。 「痛い……」  私はゼェゼェと息をしました。  様々な修行をしてきた先生が持つ、神秘パワーのお陰だったのでしょうか。  そこは分かりませんが、すべての霊が消えてかろうじて生き伸びられたのです。  ホッとした後から、私に恐怖が襲い掛かりました。 「先生! 先生! ウワアアアアアンンン! 怖かった!」  嗚咽でむせながら号泣する私の背中を、先生が優しくさすって励ましてくれました。 「何があったのか分からないが、安心しろ。脅威は去っている」  あれほど暴れた霊なのに、先生には気配も感じていませんでした。  私の状態があまりに異常だったから、何かあったんだろうと考えてくれました。  先生が来てくれたからもう大丈夫だと、自分に言い聞かせて落ち着きを取り戻しました。 「体が宙に浮いていたように見えたんだが」 「根本に襲われました」 「なんだって⁉」  驚いた先生は、周囲を見回しました。本当にいたと思っていました。 「ドアは僕がいたから逃げられない。窓は閉まっている。どこから出入りしたんだろう」 「先生、根本は生きた人間じゃありませんでした」  私の言葉の真意を先生はすぐに理解できたのですが、自分に見えなかった以上、簡単に信じることは出来ないようでした。 「僕には見えなかった。霊能力はないからなあ」 「見えない方がいいです」  見えるから、霊が寄ってくる。見えない方がいいのです。知らない方が幸せなのです。面白半分で触れてはいけない世界なのです。見えると囚われてしまう。それが心霊の世界です。 「篠原店長さんと堤恵奈さんもいました。篠原店長さんは、苦痛に歪んだ顔で床を這いずっていました。何かあったに違いありません。亡くなった玉塚尚美と岡島塁さんもいました」 「ますます不思議な話だ」  さすがに先生は信じかねていました。  私だって信じられませんでしたが、本当だったのですから仕方ありません。 「根本と堤恵奈の霊に襲われて、篠原店長は苦しんでいました。岡島塁の霊はボーっと突っ立っていました。こうして……」  私は、岡島塁のいた場所に立って再現しました。視線の先には先生の机がありました。 「斜め下を見ていました」 「……」  先生は、黙って私を見ていました。 「それから、尚美の霊が私を助けてくれました」  私は、尚美の友情に改めて感謝すると泣きました。  私を恨んでいるとずっと思っていましたが、間違っていたのです。  自分が情けなくて、嬉しくて、怖かったこととか、安堵とか、様々な感情を思い出してまた号泣してしまいました。 「ウワアアアアアン! 尚美! 尚美!」  先生は、泣きじゃくる私が落ち着くまで、優しく介抱してくれました。
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