手記12 囚われる

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手記12 囚われる

 先生に打ち明けていないことがありました。  少しずつ私の体に倦怠感が増していたのでした。  四方盆村から帰ってきてからも、さらに悪化していました。  頭がボーっとして、めまいする時間がより長く、間隔が短くなっていったのでした。  先生にはとても言えませんでした。心配すると思ったからです。  男乕均のように、自分の血を触らせなければ大丈夫と自分に言い聞かせていました。  だけどそれは単なる希望的観測でした。  愚かな私は、先生を苦しめると分かっていても、一緒にいたいと言う自分の感情を優先したのです。  アカダルマが現れる前になると周囲の空気が歪んで、まるで揺れる船に乗っているような感覚になります。それが常態化してきました。  住職がくれた護符のお陰で部屋に現れることはありませんでしたが、今度は常に気配を感じるようになりました。  護符のせいで手出しできないことを、結界の外から悔しがって見ている。そんな感じでした。  姿を現すことなく精神攻撃していたのかもしれません。  私は、まるで時限爆弾を抱えたかのような絶望的な気分に何度もなりました。  それを救ってくれたのが、先生と過ごす時間でした。  先生と一緒にいると勇気づけられたのです。  一人でアカダルマに立ち向かうのではなく、先生と一緒に戦える。  いつか先生がアカダルマを完全に倒す方法を見つけてくれる。  それを心の支えにしていました。  先生と過ごす研究室の時間は、私のオアシスでした。  私には時間がない。  だから、たくさん先生と話をしたかったのです。  体調が悪いことを先生に打ち明けました。  医者よりも先生に相談したかったのです。  悩みにかこつけて甘えたかったのです。  先生は優しく私の頭を撫でてくれました。 「疲れているんだ。疲れた脳みそには糖分が必要。実は出入り業者からの頂き物のケーキがあってね。それを食べて糖分を補給しよう」  科学者っぽい物言いは、私の気を紛らわせようとしてのことです。  先生は、できる範囲で私を気遣ってくれて、大きな愛を感じました。  先生の愛を実感すればするほど、別れることなんて土台無理なことです。 「飲み物は、何があったかな」  先生は、棚の引き出しを開けてから、「しまった」という顔になりました。 「ああ、茶葉が切れていて、コーヒーしかないや」 「コーヒーで大丈夫です」 「飲める?」 「はい」  この頃には私もコーヒーを飲めるようになっていました。  大好きな先生の嗜好に合わせようと、家で練習して飲めるようになったのです。 「お湯を持ってきます」  お湯は給湯室で沸かせます。  私は真鍮製のポットを持って廊下に出ました。  右に行くと、小さな給湯室がありました。  ポットに水を入れると、ガスコンロに乗せて火を点けました。  少ない量なのですぐに沸きました。  熱くなったポットを持って研究室に戻ると、先生がマグカップにインスタントコーヒーを入れて待っていました。  そこに沸騰したお湯を注いでコーヒーの出来上がりです。  残ったお湯は、ポットごと石油ストーブに乗せました。  先生が冷蔵庫からケーキの箱を取り出すと、中を見せてくださいました。  ピカピカに光る大振りなメロンのショートケーキが入っていました。 「うわあ! 美味しそう!」 「これはクラウンハートホテルの特製ショートケーキ。生ものは頂いても困るが、君が食べてくれるなら助かるよ」 「クラウンハートホテルの特製ショートケーキ? 超高級で贅沢なケーキだと有名ですよね。一度食べてみたかったんです! 嬉しい! 頂きます!」  クラウンハートホテルの特製ショートケーキは、芸能人がテレビで食べていて有名でした。食べてみたかったけど、私のようなお金のない大学生には無縁でした。   それを贈答品として受け取れる先生は、何てすごい人なんだと尊敬しました。 「そんなに喜んでくれるとは思わなかったよ」 「もしかして、私を喜ばせようと先生が?」 「いやいや。テレビで話題だからって持ってきたんだよ」  箱から出しただけでホワンと甘い香りが漂いました。果汁溢れるメロンがふんだんに使われていました。  フォークを入れれば分かる、スポンジのきめ細やかさ。口に入れると、最初に生クリームの爽やかな甘味が広がりました。  メロンの香りが鼻から抜けて行き、しっとり柔らかなスポンジと混ざり合うと、スポンジ、メロン、生クリームによって最高のハーモニーが奏でられて、私は幸福感で一杯になりました。  脳に糖分は必要という、先生の言葉を実感できました。  脳みそだけじゃなく、心にも糖分は必要なのでしょう。 「これ、最高に美味しいです!」 「本当だね」  先生もケーキを食べていました。  それを見ている私は、目からも甘い気分に酔いしれました。  先生と過ごす時間は、この時の私にとって、心の糖分補給となっていました。  アカダルマの呪いに関わったことは、とても不幸な出来事でしたが、先生と知り合えたのは、アカダルマお陰です。  複雑な気持ちでしたが、これが『不幸中の幸い』そのものなんだと、前向きに考えるようにしました。
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