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1.クロスワード
少年の回転する日々に壁の文字がついてくる。
母親の字で単語ばかりが板の木目に、砂壁に貼り付けた安い紙に書かれている。瞬きが遮断機になっても警笛が鳴らない。少年の望む列車は母親と二人暮らすうちに走らないのだ。
少年の目に文字が単語で走る、繋げることのできないイメージは瞬きでちょん切って、瞳のくすぐったさだけを愛でた。このくすぐったさは母さんの愛情だと、少年は閉じた瞼の上から瞳を掻いて、抜けたまつ毛をパクッと食べた。
母と少年の生活の全てが一間に絞られていて、乾ききった空は星から遠く瞬きもできない。カビの生えた布団の中で、少年は壁の単語で瞼を掻く。
――メリーゴーランド。
――特異日。
この二つは少年のお気に入りだった。
視力の落ちた目に、ツルの折れた眼鏡をかけて、少年は視力で抜けない天井を恨めしくみつめている。固い枕にかけられた枕カバーに積年積もった皮膚が点々と柄になっていた。不潔な咳をして、少年は微笑んだ。
――特異日ってのは、統計をとってそれらしい日のことだ。雨の回数が多かったらしい日、その日のことを雨の特異日という。明日はメリーゴーランドの特異日になればいいな。僕がクルクル回らなくても馬が代わりに回ってくれれば、景色は止まっていられるだろうからさ。
壁に隙間がある。
まだまだ、言葉は母の手によって書き足されるのだ。
――五文字で四文字目がツ、小さいツでもいい。
母親はクロスワードパズルを制作して生計を立てていた。等分のマス目に区切られたノートを無風に繰っては、息子に声をかけた。うっかり魚の骨と一緒に捨ててしまった部分入れ歯のない歯茎からすえた臭いがする。町に溢れる下水の臭いよりも、強く少年は眉間に皺を寄せて、自分の手を自分の口に当てた。母親はすまなさそうに笑った。
――えっと、えっと、メヌエット。
――何処にありました?
――あそこ、窓の下。
――ありがとうね。
メヌエット、少年は意味の分からない言葉を壁から拾って母親に投げた。母親は即座に意味を自分の中から汲み出して、ヒントをノートに走らせている。
少年の瞳に、意味のあるメヌエットが走り出すのはいつのことだろう。
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