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【二】
午前六時前、そろそろ起きて朝御飯作らないと……うつらうつらと夢と現の狭間をまどろんでいる頃、携帯が着信を告げた。
「お父さんが、もう危ないんだって……」
母親の震える声で、父親が入院しているという病院へ急いだ。真由子は信じられなかった。
……きっとまた、奇跡の回復を見せるんだよ……
そう思った。いや、思いたかった。電車に揺られながら、祈るようにして両手の平を合わせ、窓越しに空を見上げていた。初夏の筈の空は、鉛色だった。雨が降りそうだ。
『間質性肺炎』それが父を蝕む病名だった。その日その時初めて知る病名を、携帯で検索してみる。読みながら、脳と感情がその内容を拒否し、熟読する事を放棄した。代わりに、現実を逃避するよう思考が浮遊していく。
……まだ、父親に何もしてあげてません。だから、どうか神様、お願いです。もう少しだけ時間をください……
困った時に神に頼んでも奇跡など起きない事は、二十数年生きていた中で嫌という程知っていた。だが、今度こそすがりたかった。
病院に着くと、目を充血させた母親が入口で待ってくれていた。その表情で、奇跡が起こる可能性は限りなく低いと直感した。母親とエレベーターを昇って病室へ行く間、薄暗いトンネルを歩いているような錯覚を覚えた。連絡を受けた親戚は、これから訪れるという。
……まだ、父親に何もしてあげていないのです。だから、どうか神様、お願いです。もう少しだけ時間をください……
心の中で繰り返し繰り返し唱えながら、母親について病室へと足を踏み入れた。個室で、血圧や心臓の動きがはっきりと分かる医療器具。点滴を始めいくつかの管と繋がった父の左腕。人工呼吸器をつけた父親が横たわっていた。数年前見た時よりも痩せて、肌が土気色となっていた。それ以上は、目が霞んでよく見えない。両目に透明の膜が張り、喉の奥がギュッと痛んだ。嗚咽を耐えるように、白い天井を見上げた。
「お父さん、真由子が来てくれたよ」
母親が、父親に話しかける。父親はぽっかりと目を開いた。
「……真由、子……」
掠れた声ではあったが、父ははっきりと名を呼んでくれた。真由子は嗚咽を呑み込み、右手で双眸から溢れる雫をグッと拭いさる。
「お父さん、来たよ!」
精一杯明るく声をかけた。途端に、くちゃっと相好を崩す父親。彼の目尻から透明の雫が零れ落ちた。幼い頃からよく知っている、半月みたいに笑う、父の満面の笑みだった。
それから父は、穏やかな眠りにつき。翌日の朝、静かに息を引き取った。五月末、穏やかに晴れた日だった。

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