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空気はすっかり冷え込んできたというのに、黒塚神社の境内までやってきたときには汗だくだった。
もうヘトヘトだ。これ以上走れない。よろよろとした足取りで境内の石畳に腰を下ろした。
「冷たっ」
布越しにお尻へ冷気が伝わって来て、身体がびくんと震えた。
正面を向くと、黒塚神社の本殿が夕陽に染まっていた。縋るような気持ちで手を合わせ、目を瞑った。
「神様、鬼婆をやっつけてください!どうかお願いします!」
必死で祈りながら、タダで願いを聞き入れてはくれないよね、お賽銭を投げなきゃ、と思ったところで、お金を持っていないことに気づいた。
鬼婆に見つかって、お金を持ち出す余裕が無かったのだ。割れたお皿を掃除しようとしたとき、もう後ろに立っていた。
せめて形だけでもやろう。お賽銭箱のところまで歩み寄り、小銭を投げ入れるふりをしてガラガラを鳴らし、もう一度。
「毎日毎日怒ってばっかりで。神様、あんな鬼婆……」
そのときだった。
「ばっかもーん!!」
突然轟いた声に、私は雷に打たれたように飛び上がった。
「きゃああっ!?」
尻餅をついて周りを見回す。……誰もいない。
ふと、境内に立っている掲示板の張り紙が目に入った。そこに描かれていたのは、着物をまとった幼い女の子が、お父さんお母さんと手を繋いでいる姿だった。
そうだ、秋は七五三の時期だった。黒塚神社にも毎年多くの親子がお参りにやって来る。
私もこの神社でお祈りをしてもらったっけ。さすがに三歳のときのことはほとんど覚えてないけど、七歳のとき、お父さんと、そしてあの鬼婆――いや、幸せそうな顔をしたお母さんと、手を繋いで……。
「千里、やっぱりここにいたの」
呼びかける声に振り向くと、”鬼婆”が立っていた。
「お、お母さん……」
「千里、嫌なことがあったり怒られたりすると、よくここに逃げ込むから」
「その……」
目を背けてモジモジしてしまう。脳裏をお皿が粉々に砕け散った一瞬がよぎる。指先の傷がきりきりと痛んだ。
”鬼婆”がすっと歩み寄ってきた。私は思わず後退って、石畳の段差に躓いてバランスを崩した。そのまま後ろに倒れる。この距離感、頭がお賽銭箱に……。
あーあ、罰が当たったんだ、きっと。うっかりでお皿を割ったくせに、また怒られるのが嫌だからって家を飛び出して、完全に私が悪いのに鬼婆呼ばわりして、しかも神様にお願いまでしちゃった。そんな子、神様に怒られて当然だ。私は諦めて目を瞑った。このままゴチンと頭を――。
ぶつけなかった。
”鬼婆”が倒れかけた私の手を掴み、支えてくれていた。そのままぐっと引っ張ってもらい、姿勢を直した。
「いつも言ってるでしょ!ちゃんと周りをみて行動しなさいって!」
”鬼婆”は膝をつき、私に目線を合わせてじっと見つめてきた。
厳しい表情だったけど、怖くはなかった。
「それから、あんた慌てて素手で破片にさわってたから、ケガしてない?……ほら」
”鬼婆”は私の両手を取ると、すぐに指先の傷に気が付いた。
「ダメじゃない、ケガしたまま家を飛び出しちゃ。あんた、ほんと考えなしに動くから。さあ、帰って手当しましょ」
「……お皿割っちゃったこと、怒ってないの?」
「怒ってるに決まってるでしょ!でもねえ、そこじゃないの」
「どういうこと?」
「だから言ってるでしょ。千里はそそかっしいから、いつか大変な目に合うんじゃないかって心配なの。本当にどうにかならないかねえ。あ、そうだ」
お母さんは本殿に向き直ると、ポケットから小銭を二枚取り出し、一枚を私に握らせた。
「神様にお願いしていきましょ。あんたの不注意が治るようにって」
そう言ってお母さんはお賽銭を投げ入れ、ガラガラを鳴らして手を合わせた。私もお母さんに促されるように、今度は本当にお賽銭を投げ入れ、お祈りをした。お母さんを”鬼婆”にしないように、私がもっといい子になれますように――。
「さ、帰りましょ」
お母さんに手を引かれ、私たちは本殿に背を向けて歩き出した。ふと、「良い親を持ったな」と、あの一喝と同じ声が聞こえた気がした。
ありがとうございます、神様。私、きっといい子になります。私は、お母さんの手をぎゅっと握りしめた。
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