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遥か彼方のソプラノ
汗が止まらない。これはスポットライトの熱さゆえだ。緊張じゃない。焦りじゃない。私に怖いものなど無い。
大丈夫、とゆうちゃんが声をかけて来た。
「まほ、汗やばいよ。緊張してるんでしょ」
「スポットライト。スポットライトが熱いの」
「まだ舞台袖だよ。なんなら冷房が効きすぎてて寒いよ」
ほれ、と差し出された腕には鳥肌が立っていた。私も腕を並べる。汗が玉になって浮かんでいた。馬鹿な。辺りを見渡すと、女子達が剝き出しの腕をさすっていた。
「七月なのに寒がる方がおかしい」
「冷房が効きすぎてるって言ったじゃん。今、汗かいてるのはあんたと吉野君ぐらいよ」
探すまでも無く吉野は目に入る。そんなに寒いかぁ、と自分に抱き着く男子達に問いかけていた。あんな百貫デブと一緒にされる日が来るとは思わなかった。そう言うと、あんた何も反省していないでしょうとゆうちゃんは溜息をついた。
「だって私、デブじゃないもん」
「自然に人を見下すなって言ってんの。そのせいで今、あんたはガッチガチに緊張する羽目になったんでしょうが」
「私の歌が上手いからだ」
「一回も成功してないじゃん。しくじったら慰めてはあげるけど、恥かくのはあんただからね」
微妙に優しさを感じる。私に優しくしてくれるのは、ゆうちゃんくらいだ。別に構わない。私は完璧なのだから。完璧天才超人は、常に孤独である。
「故に、恥などかかない」
「バカ」
脛を蹴飛ばされた。無言でうずくまる。痣にならないといいのだが。でも暴力で発散させるゆうちゃんの方がずっとさっぱりしている。嫌いなのは環境から追い詰める人だ。集団生活なんて思い付いた最初の人間をしばき倒してやりたい。孤高なる天才には生きづらくて仕方がない。人間は一人きりで生きていくことなど出来ない、と言う。確かに色々な人がいて、それぞれの仕事を通して、たくさんの物が提供されて社会は成り立っている。しかしわざわざ人間同士を繋げなくても、一人一人が仕事や役割を全うすれば社会はまわるはずだ。隣人と手を取り合うなど、不必要だ。
「ほれ、出番だよ。さっさと立つ」
今度はゆうちゃんに頭を叩かれた。自分でダウンを奪っておいて今度は立ち上がらせるとは、とんだ親獅子である。出番。いよいよ私の才能をひけらかす時か。
「やってやろうじゃん」
勢いよく体を起こす。脛が痛んだ。そして威勢のいい声は震えていた。緊張ではない。武者震いだ。
ふと視線を巡らせると、意地悪な目とかち合った。六人ほどの女子グループが私を見ている。口元に手をやり、小声で何か言葉を交わしていた。そうして小さく笑い声をあげる。なんという根性悪。ろくな死に方をしないに決まっている。なんだあこの野郎、と肩をいからせ歩み寄ろうとしたが、出番だっつってんだろ、とゆうちゃんにしばかれた。
「私じゃなくてあっちを殴ってよ」
「私は関係ないもん。あんたが自分で責任とりな」
「じゃあ私を殴らないでよ」
「口で言っても伝わらないからせめて殴らせろ」
二年四組、とアナウンスが響いた。まあいい。見ていろ凡人というゴミども。あぁ、ゆうちゃんは除く。あと、両親と弟も。凡人に、天才の所業を見せ付けてくれる。この合唱コンクールは、序章にすぎない。
二列になって舞台の中央へ歩いて行く。クラスメイトの足音がやけに響く。手が痛いなと思ったら、トランプの束でも引きちぎれそうなほどの握力で無意識に握り拳をつくっていた。何故こんなことを、と不思議に思っていたら前の奴にぶつかった。舌打ちが返ってくる。アナウンスが課題曲と自由曲の名前を告げていた。どのクラスも課題曲は同じなのだから、毎度読み上げることも無かろうに。客席に向き直った時、手足が一緒に出ていたよ、とゆうちゃんが耳打ちした。吐息がこそばゆい。
拍手が沸き起こる。まだ歩いて立ち止まっただけなのに、何の拍手だ。私を崇め奉る拍手か。苦しゅうない。よう聞けい。思わず腕組みをする。無言のまま、蹴りや平手打ちがあちこちからとんできた。
指揮者が手を上げる。足を開いたらゆうちゃんにぶつかった。それとなく股を閉じる。叩かれはしなかった。少しだけ、後が怖い。
課題曲が始まる。アルトパートは基本的にハモリなので、あまり根を詰めなくてもいい。丁度いいウォーミングアップだ。私の才能を見せ付ける場は、自由曲。その中盤に鎮座するソロパートが、選ばれし私の大役である。
元々は、ソプラノパートの中でも一番歌が上手いとされている奴が担当していた。確かに上手くはあったが、情緒に欠け、また声に伸びも足りず、仕方がないのでピアノを習っていた私が公開指導を徹底的に施した。ある日突然、そいつは泣き出してしまった。そして私を指差し、こいつムカつく、とだけ言葉を漏らした。あとは涙を流すばかりで話にならなかった。男女問わず、クラスメイトは私を責めた。上手く歌えない方が悪い、と主張したら声がでかいだけのお前が言うなと余計に非難された。
「そんなに偉そうなことを言うなら、お前がソロをやれよ」
サッカー部所属の、髪をツンツンに立てた伊藤が口角泡を飛ばしながら主張した。そうだそうだ、と後を追う者が続出した。売り言葉に買い言葉。上等だ、と私は中指を立てて受けた。私に任せろ。クラスを優勝に導いてやる。そこまで啖呵をきろうと思ったのだが、合唱はクラス全員が責任を負うべきなので、私一人のせいにされないよう言葉を飲み込んだ。そこに気づくあたりが私の天才たる所以である。
実際にソロパートを歌い始めて、一つだけ困ったことがあった。私の声は低いため、高音が出なかった。指導していた時には実際に歌わず言葉や身振り手振りで教えていたので、何も不便は無かった。これは天才に与えられた課題か、と顎に指を当ててみたが、いくら天才でも声帯を自在に伸ばしたり開いたりすることは困難だ。それでも、二週間ほど練習してみると裏声を更に裏返らせると言う特技を習得できた。試しに弟の前で披露したら、金魚が死ぬからやめてくれ、と部屋から叩き出された。やかましい、と母にぶん殴られ、父は自分のこめかみを押さえていた。結局、練習では一度も正確な音を出し切ることは出来なかった。クラスメイトは、何度も挑戦しては失敗する私に、最初はほら見ろだの口ばっかりだの囁いていたが、次第に何も言わなくなった。もし、私が諦めて謝罪と共に前の担当者へ大役を譲り渡すのだと思っていたのなら、それは見込み違いだ。私にも意地がある。絶対に出来るようになってやる。そうして必死こいて踏ん張っている内に、本番を迎えた。クラスメイトも意地になっているのだろう、誰も交代しろとは言わなかった。
「全員が思いっきり損をしたね」
万事が面倒臭いという理由から中立の立場を守り続けたゆうちゃんが、昨日の帰り道でそう言った。
「凡人のミスを、帳消しどころかプラスに変えるのも天才の仕事よ」
「あんた、十年後には布団の中で足をバタバタさせる大人になるよ。これ、確かな予言だから」
その言葉の意味はわからなかったが、まあとにかくやるだけだ。そうして気合の乗ったまま夕飯を食べ、風呂で大いに喉を潤した後、床に就いた。舞台のシミュレーションをしていたら、あっと言う間に朝を迎えた。一睡も出来なかったことに驚いた。流石私、何という集中力か。
思い出を反芻していたら、課題曲が終わっていた。やはり私の集中力には目を見張るものがある。これは覚醒のフラグだ。今までの自分を過去に置き去りとする瞬間が訪れるのだ。さあ、いよいよ自由曲である。やってやろうじゃん。
その時、顎が震えだした。歯が鳴る。慌てて少し口を開けると、息が上手く吸えなかった。視界の四隅が白くなる。背中の奥底が熱くて仕方ない。
「現実と向き合う時が来たぞ」
唐突に、おっさんの声が頭に響いた。悪魔の囁きというやつか。まさかこの土壇場でそんな体験をしようとは。天才たる所以か。いや、関係ないか。それより、現実と向き合うって何だ。私は現実をしっかりと生きてきた。決して想像や妄想に逃げたりしなかった。
「お前は自分の力をよくわかっている。だから気付いているだろう、絶対にソロパートを成功させられないことを」
馬鹿め。私は万事において天才だ。確かに練習では一度も成功しなかった。だが、ここぞの大舞台で成功させるのが天才だ。そして私は天才である。ならば成功するに決まっている。約束された輝かしい未来が待っている。
「お前、天才じゃないじゃん」
いや、私は天才だ。全てにおいて一流の才を持っている。
「だったら勉強も運動も芸術も話術も、人間関係も頭の回転も、全てでお前を上回るゆうちゃんは大天才だな」
天才の友人もまた天才であろう。何もおかしいことはない。
「意固地になってないで認めろよ。お前は凡才だし、声は低いし、この小さな舞台ですらガッチガチに緊張するほどの小心者だ。現に課題曲だって掠れ声でしか歌えていなかっただろう」
知らない。覚えていない。思い出に浸っていたら歌い終わっていたのだ。素晴らしい集中力である。
「緊張しすぎて気もそぞろなんだよ。まあ、約束された失敗する未来が待ち構えていたら、こうもなるか。せいぜい神頼みでもするんだな。あばよ。次からはつまらん意地なんて早々に捨てちまいな」
悪魔の声が途絶えた。指揮者が再び手を振り上げる。私の鼓動は信じられないほど早くなっていた。
失敗する。天才じゃない。小心者の凡才。悪魔はそう言った。現実に足をつけてみる。悪魔なんているわけがない。つまりあれは私の本音で、壮絶な一人芝居を脳内で繰り広げていたことになる。そして足をつけたついでに己を見詰めてみる。涙の滲んだ目をかっぴらいて、手も足も震わせて、上手く出ない声を何とか振り絞っている。随分とまあ低い声で、おまけに地声だ。さっき、悪魔のものだと思った声は、ただの私の声だった。はっきり言ってこの私は、全体的に汚い。よくこんなざまで人に指導などと出来たものである。いや、出来ていなかった。ただの嫌味なクソ野郎だった。こいつムカつく、と指さされるのも当然だ。
なんてこった。私は大いに勘違いをしていた。何もここで気付かなくてもいいじゃないか。これなら勘違いしたまま見せ場という名の処刑場を駆け抜けたほうが百倍マシだった。ものすごく痛い奴になるが、とうの昔に手遅れなので今更問題にもならない。
「あんた、多分十年後には布団の中で足をバタバタさせる大人になるよ」
ゆうちゃんの言葉が蘇る。このままでは今夜布団の中で足をバタバタさせることになる。しかし今、この瞬間、私にはどうすることも出来ない。舞台から走って逃げられたらどんなにいいか。
ソロパートが近付いてくれる。来ないでくれ。嫌だ。私には無理だ。この野太い声帯にどうしろというのだ。私に出来ることは、裏声の裏声で金魚を殺すくらいだ。瞬きしたらもう全てが終わっていて、ゆうちゃんと歩く帰り道になっていればいいのに。
それでも無防備な私目掛けて、ソロパートはやってくる。あぁ、神様どうか。私に成功を。約束された輝かしい未来を。出るわけのない高音のボイスを。
どうか、さずけて。
観衆が目を見開いていた。誰も身じろぎしない。囁き声の一つも聞こえない。
私達も無言で舞台を降りる。一人も口を開かない。三十人の足音が、連なって響くばかり。
舞台袖へ下がると、ゆうちゃんの手が肩に置かれた。言葉をかけてこない。顔も見せない。ただ、黙って手だけが乗せられている。
神は死んだ。金魚より先に、私は神を殺した。今日から私は、布団に籠って足をバタバタさせる物体になろうと思う。
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