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「大丈夫かい? 絹子さん」
「……えっ?」
ゆるりと目を開く。温かな日差しに目が眩んだ。私の手を握り、片手を腰に添えて支えてくれているその人は、端正な顔立ちで、見るからに物腰柔らかそうな雰囲気を纏っている。睫毛の長い目、シュッとした鼻筋。風に揺れる指通りの良さそうな黒髪。
私は彼を知っている。
どこからか散ってきた桃色の花弁を背に私を見つめるのは、若かりし頃のおじいさんだ。
「と、敏文さん……」
震えた声で夫の名を呼ぶ。そこで私は、自分の声がやけに高く澄んだものであることに気がつく。まさか、と思い視線を下に向ければ、皺ひとつない白い手があった。着ている服も、私が若い頃に好んでいた牡丹柄の着物だ。
「久しぶりに商店街へ出歩いたから疲れてしまったかい?」
「い、いえ……そういうわけでは」
「そうかい? 遠慮はしなくていいからね? 休憩を取るのも大事だよ」
敏文さんは澄んだ目を心配そうに細めて顔を覗き込んでくる。綺麗な顔が近づいたせいか、頬の辺りがぶわりと熱を帯びる。夫の顔なんて見慣れているはずなのに、どうにも照れくさい。どうやら、私の心まで生娘に戻ってしまったようだった。
「あ、あの、敏文さん」
「なんだい?」
「……少し、歩きませんか?」
「いいけど、体調は大丈夫かい?」
「はい。少し呆けていただけです。ごめんなさい、我儘もついでに言ってしまって……」
「いいんだよ。絹子さんは我儘を言ったことがないから、たまにはね」
敏文さんはえくぼを作って微笑むと、私の手をそっと握る。温かな体温に小さな幸せが胸の奥に咲く。こんな会話、したことがない。これは若い自分自身の追体験ではなく、本当に私がたった今経験していることらしい。それも、昔の自分の体に精神が入った状態で。
「絹子さん、どこへ行きたい?」
「……どこへでも。あなたとなら、どこへ行っても楽しいもの」
「おや、ずいぶんと嬉しいことを言ってくれるね。でも、絹子さんが行きたいと思うところに行きたいな」
敏文さんは愛おしげに私の目を覗き込んでくる。慈愛に満ちたその瞳にからめとられれば、もう動けない。初心な少女の胸はたったそれだけで高鳴ってしまう。懐かしい感覚に戸惑いながらも、私は敏文さんの手を握り返して恐る恐る口を開く。
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