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「……桜が、綺麗に見える場所」
「桜かい?」
敏文さんの言葉に頷く。変に思われたかもしれない。だって今は、雪が積もるような冬の季節だ。桜など見られるはずもない。
「ふふ、いいね。じゃあ、とっておきの場所があるんだ。今はきっと、満開の桜が見られるはずだよ」
敏文さんはくすくすと楽しそうに笑って私の手を引く。
桜が見られる? その言葉に疑問を覚えつつ、私は手を引かれるままに町を歩いていく。
確かに、冬にしては日差しがやけに温かい。春の陽だまりを連想させるほどだ。町を行く人たちの格好も、冬にしては薄着に感じられるし、八百屋の店先に並んでいる旬の食材も、かぶやふきのとう、甘夏といった春のものばかりだ。
「絹子さんは、満開の桜を見たことがあるかい?」
春らしい町を行く敏文さんが口を開く。
「桜自体は見たことがありますけど、感激するほど咲き乱れたものは見たことがありません……。でも、実家の周りにはあまり桜の木がなくて……この町に引っ越してくる前はほとんど見たことがなかったんです」
「え、そうなのかい? じゃあ、この町に来てからは?」
「あまり……。私、体が弱くてそれほど外に出られなくて。最近は体調がいいので敏文さんとお出かけしていますけど、一年ほど前までは自室に籠りきりで……」
私の口が勝手に言葉を紡いでいくことに、違和感しか覚えなかった。物忘れがひどくなったため、必死に記憶を辿ろうとしていたが、この私の体ははっきりと物事を覚えているらしい。自分じゃないみたいな言葉を聞きながら、今は敏文さんと会ってまだ半年くらいの頃なんだなとぼんやり懐古していた。
「……そうか。じゃあ、尚更楽しみだね。絹子さんが喜んでくれたら嬉しいな」
敏文さんはへにゃりと嬉しそうに微笑んでまた私の手を握る。くすぐったくて思わずその手を離しそうになってしまったけれど、今だけは甘い夢に浸っていたいという我儘な私が何とかその手を繋ぎとめた。
今はもう無い古きよき商店街。若い頃に通った甘味処に、お世話になった仕立て屋。それから、可愛らしい猫がいつも店先に居た茶屋。敏文さんに手を引かれながら、私は初めて異国の地に来た少女のようにキョロキョロと忙しなく見回していた。
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