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「絹子さん、楽しそうだね」
「ご、ごめんなさい、はしたないわね……」
「そんなことないさ。そうしてくれていた方が僕としても嬉しいよ。少しでもこの町を楽しんでくれたらそれでいいんだ」
敏文さんの笑顔に、また胸の奥がキュッと締め付けられる。もう見ることのできない夫の笑顔だという事実と、少女の頃に感じた純粋な恋心が混ざり合う。私はきっと、この優しい笑顔に惹かれたのだ。
「ところで絹子さん。絹子さんは、神様って信じているかい?」
商店街を抜けた辺りで、手を繋いだままの敏文さんがふと振り返る。
「神様、ですか?」
「うん。この世に神様って存在すると思うかい?」
人気が少なくなり始めた通りで、敏文さんの穏やかな声が私に問いかけてくる。
神様、と胸中で復唱する。人智を超えた不可視な存在。もはや伝説とされる曖昧な存在。けれど私は、その存在を信じている。そうでなければ、今こうして自身の過去を体験することなどあり得ないのだから。
「……笑われるかもしれませんけど、神様はこの世界に居ると思います。神様は時に薄情だけれど、信じている人には奇跡を与えてくれると思うんです」
ここに来る前の出来事を回想する。古い祠に願いを込めた時、誰とも知れぬ声が響いた。舞い踊る雪が視界を染め上げて、あっという間に私を過去へと連れてきた。そんな芸当、神様じゃなければ一体誰がしたというのだ。きっと神様は、老い先短い年寄りを哀れに思って奇跡を与えてくれたに違いない。
「……そうか。僕もね、そう思うよ。神様はいる」
「敏文さんもそう思うんですか?」
「あぁ。でもね、信じていれば願いは叶うだなんて謳う人がいるけれど、僕は正直信じていなかった。信じるだけじゃ願いは叶わないだろって卑屈に思ってた時期もあってさ」
「分かる気がします。私も、心のどこかでは疑っていましたし」
「見た事のない存在は疑いたくなるものだからね。……でも、僕は神様に縋ったんだ。どうしても叶えたい願いごとがあってね。強く念じて、叶えたい願いごとを必死に唱えたんだ」
繋がれた手に少しだけ力が籠る。口にはあまり出したことがなかったけど、敏文さんも神様を信じていたのか。もしも立場が逆だったのなら、敏文さんも私と同じように桜を見たいとあの祠で願ったのだろうか。
「そしたらね、願い事が叶ったんだ。奇跡みたいだよ。神様にも我儘を言ってみるもんだって思った」
ガラス玉みたいに澄んだ瞳が私を映し出す。私と同じように、かつて神様に願ってその望みを叶えたなんて。
私たち、お揃いね。
そう口にしたかったけれど、敏文さんから見て今の私はまだ妻でも何でもないただの知り合いの少女だから、そんな浮かれた台詞は口にできなかった。
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