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「神様じゃなくてもいいからさ、僕にはもっと我儘を言ってほしいんだ。人生っていつ終わるか分からないからね。僕は絹子さんの願いをたくさん叶えてあげたいんだ」
「私の?」
「そうだよ。絹子さん、目的地に着くまでに何か一つ我儘を言ってくれないか? あなたの願いを僕に叶えさせてほしい」
新緑が揺らめく山道の手前で、敏文さんは改まった声音で言った。立ち止まり、私の両手をそっと包み込む。
私の願い事。
それは、敏文さんとまた桜を見ることだ。その願いは、これから叶おうとしている。これ以上、何を望めばいいのだろう。幸せという波に溺れて窒息してしまいそうだ。
「……私は、敏文さんと桜が見られればそれでいいんです。それが今一番叶えたいことなんです。遠慮とかしているのではなく、心から望んでいることなんですよ」
もう叶うことはないと思っていた。敏文さんは明日にでも息を引き取ってもおかしくないのだから。どう足掻いても二人で春を迎えることができない。その事実を捻じ曲げて、私は今こうして敏文さんと春らしき季節を謳歌している。
「……絹子さんらしいね」
「そうですか?」
「うん。でも、僕も絹子さんの立場だったらそう願う気がするな。……すまない、強引に我儘を言わせようなんて真似をして。さぁ、行こうか」
再び手を繋いで、緩やかな坂道を登っていく。今はもう足腰が弱くなって頻繁に行き来することはなくなってしまったけれど、この坂道は生涯の中で最も通った道だろう。あの祠に行くときも通ったし、先週買い物に出かけた時にも通った道だ。
身軽な体で歩いていくたびに、甘い花の匂いが濃くなっていく。どこからか散ってくる桃色の花弁は、私が探していたものに違いない。本当に、今は春なのだ。二人で迎えることのできない春が、きっとそこにある。
「絹子さん、少し目を閉じてくれないかい?」
坂を上がり切る前に、立ち止まった敏文さんが声をかけてきた。
「目を?」
「お願い」
「よく分からないですけど……じゃあ、閉じますね」
訳が分からないまま、私はそっと目を閉じる。視界は真っ暗で、何も見えない。繋がれた手の感触が一瞬皺だらけのものになった気がして、むしろ懐かしさを感じた。「ゆっくり行くね」と穏やかな声が私の手を引く。
心地よい風が頬を撫でる。甘い香りが弾ける。
風が吹き抜ける度に葉の音が耳を掠めていき、恋焦がれた春の景色の中へと意識が放り込まれていく。
「……目を開けて、絹子さん」
一分ほど歩いたところで、声がかかる。隣に立つ敏文さんの気配を感じながら、ゆっくりと目を開けた。
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