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「……うそ」
思わずつぶやいた。目を見開いた。あまりにもその光景が信じがたいもので、美しいものだったからだ。
視界一杯に咲き乱れる枝垂れ桜がそこにはあった。
「綺麗でしょう? ここの桜は毎年こんなに美しく咲き誇るんだ」
「こんなに満開な桜、見たことない……」
初めて見た時の感動と、懐かしい気持ちが私の中をぐるぐると渦巻いていく。この時代の私が初めて見た桜。春の桃色が舞い踊って、見た事のない世界へと私を連れ去っていく。幼心が擽られて、童心に帰った気分になる。
「と、敏文さん! すごいですよ……! 桜がこんなにたくさん!」
「ふふ、喜んでくれて嬉しいよ」
「もっと近くで見ましょう!」
今度は私が敏文さんの手を引いて駆けだした。慌てながらも、彼は私に着いてきてくれる。
一番大きな桜の木の下に立てば、桃色のカーテンが私たちを世界から覆い隠した。今、この世界には私と敏文さんしかいない。もうどこを探しても見つからない、若かりし頃の二人だけ。
「……本当に、綺麗」
泣きなくなるほどに。
繋いだ手に力が籠り、思わずその視線を地面にやってしまう。
「……僕にはね、夢があったんだ」
俯いた私の顔を上げさせるかのように、敏文さんが脈略もなくそう切り出した。
「夢、ですか?」
「うん。まずは、絹子さんと恋仲になること。そうして、夫婦の契りを交わすこと。そしたらここに家を建てて、二人で暮らすんだ。何気ない会話で笑って、些細なことで小さな喧嘩をして、また仲直りして。美味しい物を食べて、そしてゆっくり老いていくんだ。最後の最後まで、僕と絹子さんは夫婦なんだ」
敏文さんは遠くの空を見つめる。その目の奥には、現在の私たちが映っているみたいだった。まるで、私たちが辿る未来が敏文さんには見えているみたい。だって、私たちの家は今もここにあるし、私と敏文さんはずっと夫婦なのだから。
「……そんな人生がいい。あなたの運命まで勝手に巻き込んですまなかった。でも、僕の人生には絹子さんがいないとダメだったんだ」
「そんなの……私もですよ。私も、敏文さんがいないとこの先も生きていけませんから。もう今更、あなたとの出会いをなかったことになどできませんから」
どこか泣きそうな顔の敏文さんの頬に触れる。私は幸せ者だった。こんなにも私を想ってくれる優しい人の傍で何十年も暮らしてきたのだから。
敏文さんが夫でなければ、神様にあんな願いごとなどしなかったはずだ。きっと、叶うこともなかった。
「……ありがとう」
「それはこちらの台詞ですよ敏文さん。……もう一度、この場所に連れてきてありがとうございました」
「ううん。僕の方こそ、また絹子さんと今日この場所で桜を見ることができてよかった。僕は世界一幸せ者だ」
敏文さんは涙を浮かべながら私を抱きしめる。とくり、とくりとゆっくりな鼓動が流れ込んでくる。その心臓の声が愛おしくて、私は目を閉じる。温かな眠りに誘われるような感覚と、夢が終わる気配。刹那の夢よ覚めないでと縋るように彼の背に手を回す。
桜が舞い落ちる。
長年の時を歩んだ二人を祝福するかのように。
桃色が白に変わり、雪のように降り積もる。
そうして小さな奇跡は、雨のような桜吹雪に攫われていくのだ。
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