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あの春の日をもう一度
さくり、と雪が委縮する音がする。杖の先が埋まる雪はじわりと水になり、痛いと涙を流しているみたいだった。
カラコロと小さく口笛を吹く鈴が付いたお気に入りの杖に体重を預けながら、雪が積もる階段をゆっくりと上っていく。白に染まった手すりに触れれば、手袋越しに雪の冷たさが流れ込んできた。曲がり始めた腰をできるだけピンと伸ばし、転ばないように慎重に白い石段を上がっていけば、枯れ木に覆われた一つの祠が顔を出した。
幾つもの傷が刻まれた小さな祠。雪を被ってずいぶんと寒そうに佇むその前に立ち、私は杖を持ったまま両手を合わせる。
目を閉じれば、おじいさんとの若かりし頃の思い出がふとシャボン玉のように浮かぶ。私の髪も艶やかな濡れ羽色で、おじいさんが町一番のハンサムだと言われていた頃だ。どこからか甘い桜の香りがする。肺に満ちる冷たい空気は痛い冬のものであるというのに、私の心はどうにもおじいさんと駆け回った春の景色をいつまでも感じているらしい。
だから、こうして神様に祈りに来たのだと思う。私の中で色濃く残るその思い出を、もう一度だけ体験したい。もう後先長くないおじいさんに、最後の思い出を送りたいのだ。明日にも息を引き取ってもおかしくない夫に、最高のお贈り物がしたいだけ。
否、私がただおじいさんと思い出を作りたいだけなどという我儘でもある。そんな貪欲な願いを神様が叶えてくれるとは思わないけれど、もう神様に縋るしかなかった。
私は我儘を言えない子だった。そんな私に我儘を教えてくれたのはおじいさんだった。でも、そんなおじいさんには結局我儘の一つも言えなかった。彼の優しさに漬け込んでしまったようで嫌だったのだ。
まさか、初めて我儘を言う相手が神様になるだなんて思ってもみなかった。皺だらけの手を合わせて、強く目を閉じる。情けないことに神仏に関しては正確な知識もないため、祈り方の一つも知らない。
そんな無礼な老いぼれの願いを叶えてくれる神など果たして存在するのだろうか。そう思いながらも、私は神に祈る。
どうか、もう一度おじいさんと桜を見に行かせてください。
あの若い日々のように、無邪気に笑いながら桜の下を駆け回ってみたいの。
――リン、と杖についた鈴が鳴いた。
ハッと目を開く。
突如、どこからか雪が舞い落ちてくる。淡い冬の日差しに反射しながら踊り、ぐるぐると渦巻いて私の視界を白く染め上げた。
「その願い、叶えてやろうではないか」
パチンッと指が鳴る音がしたかと思えば、視界が暗転する。一瞬の寒さと眩暈。思わずよろけそうになったところで、誰かが私の手を引いた。
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