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社へ行くには
眠って見る夢の中で、何度も行く社がある。
その社に行くには、複雑な道のりをたどらなければならない。
枯れ草の生えたひび割れた道路の、かすれた中央線をたどる。
それから、さびついたリフトに両手を掛けて、宙ぶらりんのまま蔓性の植物が囲う場所をゆっくり上っていく。不思議と腕は痛くならないし、落ちたら死んでしまう高さなのに怖いと思ったことがない。
リフトの終点には大仰な見た目の、いかにも老舗の旅館に見える休憩所のような場所がある。ときどき、私はそこで配膳の仕事を手伝っている。
客は見知らぬヒトモドキ――ひとがたをしているだけで、人間なのかも曖昧な者――ばかりで、店員や店長も、その都度顔ぶれが変わっている。
ときには横柄な客も来るが、ほとんどが皆おだやかに笑って、隣に座った参拝者とぽろぽろと話をしている。
ぽろぽろと、と言ったのは、何を話しているのか解らず、楽器が鳴っているようにも聞こえるからだ。訛りがあるのか、そもそも日本語でも、私が聞いたことのある言語でもないのか、その音に含まれるニュアンスは解っても、何を言っているのかは全く理解できない。
店員や店長はマルチリンガルのようで、どの客とも談笑しているし、私が聞き取ることのできる日本語も話すことができるらしかった。
仕事が終わったあと、もしくは店に立ち寄らない日は、そのまま社を目指して山を登る。
そのときはだいたい同行者がいる。
昔、近くに住んでいたあまり話したことのない少女だったり、見知らぬ子供や中年の男だったり、犬に似た獣だったりする。彼ら彼女らは社までの道を知らないことが多く、ほとんどの場合、私が手を引くなり先に行くなりして道案内をすることになる。
言葉が通じれば話をすることもあるが、およそたわいのない世間話ばかり――「ここはいいところだ」とか「休憩所のどの食事が美味かった」とか――で、互いの名前も知らずに別れることが常だった。
自分でもなぜだか解らないが、私は参道を使ったことがない。
いつも、苔の生えた木々の間の小道を歩き、岩が点々とある小川の上をまたいでいく。そちらの道を、なぜか私は“正しい道だ”と認識しているらしかった。
実際、そういった場所を通ると参道で向かうよりも早く社に到着する。自分たちより先に休憩所を出た一団が、私たちが社で手を合わせている頃に登ってくるのだから、早く着いているのは確実だった。
境内は美しい。参道と社以外の森や岩場はすべて淡い色の苔で覆われている。黄緑色にめかしこまれた木々がところ狭しと並び、天井には葉の屋根があるのに、いつもやわらかな日差しが落ちていて明るい。
私は手を合わせても、何も願わない。社の前に来ると、頭が空っぽになってしまい、願うことなど何もないように思えてしまう。だからいつも同行者を急かさないために、彼らが願い終わるまで、私は横で両手の平をくっつけて目をつぶっている。
同行者がなにかを願い終えると、私は彼らを休憩所やリフトのあたりまで送っていく。
なぜか、一緒には帰らない。
それどころか、私は元いた場所へと帰る道順を歩いたことがない。ひび割れた道路を歩き、リフトに乗り、山道を越えて社まで来たのだから、今度はそれを逆にたどっていけばいいはずなのに、私はそうしたことがない。
そして、いつも同行者の背が蔦の向こうへと消えたところで目が覚める。
そうすると私は、冷たい床板の上で転がっている。
そこで、あの光景が夢だったことに気づく。
何度も同じような夢を見ているはずなのに、夢の中でこれは夢だと気づいたためしがない。
そのときに、私は願う。
またあの、暖かな場所へと“帰りたい”と。
誰に願うでもなく、自分に願うのだ。
そうすると私はうつらうつらとしてくる。
そして、床板の上で眠る。
わたしはひび割れた道路の中央を歩いて、あの夢のような場所へと向かう。
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