気が付かない、という危機

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気が付かない、という危機

「おかえりなさい。画鋲(ピン)、買ってきてくれた?」  妻は青紫の花が装飾された髪留め(ヘアピン)をいじりながら夫を出迎えた。見覚えがある、と夫は買ってきた紙袋を渡しながら思った。なんという名前の花だったか……。 「ただいま、これでよかったよね?」  ……そうだ、あれはジギタリスだ。先日の密会で《あの娘》が好きな花だと言っていたことを彼は思い出した。  花言葉は……思い出せない。  夫はソファーに座り込んでテレビをつけた。夕飯がいらないことは既に伝えており、洗い物担当の日でもない。それに《あの娘》がお気に入りの番組だから絶対に見ろと念を押されていた。少し鬱陶しく思ったが、年齢がこれだけ離れているのだから仕方ないのかもしれない。話題づくりのためにも見て損はないだろう。 「ありがとう。ごめんね、急に必要になっちゃって」  彼女は立ち上がってソファーの裏へ向かった。そこには二人の思い出が飾られたコルクボードがある。昔の写真でも出てきたのだろうか。ノスタルジックな彼女らしい、と彼はほほえましく思った。 《ええっ、じゃあアンタずっとその人に片思いしてるわけ?》  テレビの中で司会者は騒々しく、けれど楽しげにそう捲し立てた。そう面白いとはいえないが別に不愉快でもない。老若男女のタレントたちが初恋の思い出や失恋の話に花咲かせるという毒にも薬にもならない良質な番組。画面の端に妻のお気に入りの単独(ピン)芸人が映り、彼の名がオカオタタカキであることを夫は思い出した。奇妙な縁だが《あの娘》の弟らしい。 「あなた、ちょっといい?」 「ん?」 「これ、さっき寝室で見つけたんだけど」  妙に明るい声。振り返ると、妻の細い指先には鰐口型で金色の襟締め飾り(ネクタイピン)が鈍い輝きを放っている。  夫は飛び上がりそうになったのを必死で堪えた。 「え、ああ、かなり前に買ったやつだけど、それがどうかしたの?」  夫は声が震えるのを抑えきれなかった。「ふぅん」と妻が嗤う。その芝居じみた強いトーンは彼女の考えを如実に表現していた。 「珍しいよね、あなたがこのタイプの襟締め飾り(ネクタイピン)を着けるなんて」  夫は自分の額に冷や汗が湧き出したのを自覚した。先週の密会で選んでもらった襟締め飾り(ネクタイピン)。ちゃんと隠しておいたはずなのに、なぜ……。 「これさ、クローゼットの奥にあったんだよね。まるで隠すように」  襟締め飾り(ネクタイピン)をゆっくり撫でる。結婚三年目で初めて見る彼女の姿。まるで悪魔が舌なめずりのようだった。 《……それではここからは芸人の秘められた想いを……》  テレビは相変わらず暢気な番組を垂れ流している。 「いや、その、それけっこう高かったから……ごめん、黙って高価なものを買って」  一抹の真実を交えて彼はそう弁明した。まだ確信はないのかもしれない。辻褄合わせて誤魔化せばなんとか……。 「じゃあ、あの女のことは何も知らないのね」  相変わらず冷たい眼をして彼女はすぐ後ろのコルクボードを指差した。  声をあげなかっただけ上出来で、今度こそ心臓が停止したと思った。丁寧に四隅を画鋲(ピン)で留められた、スーツ姿の自分と《あの娘》と抱き合う写真。  夫は何も言えず、そして彼女は何も言わず時間だけが過ぎていく……。 《はい、お楽しみいただけたでしょうか。生放送でお送りしてきましたが、そろそろお別れの時間…………えっ、なに……サプライズ?》  流れ続けていた色恋沙汰番組が彼を現実に立ち戻らせた。  弁明しなくては。どうやって、いや、無理だ。無理じゃないやれやるんだはやくしろとにかくなにかをいえ。混乱は彼の口元に溢れ出る。 「そ、あ、え、ぁ、それ」  言葉未満の音を彼女の嘲笑が遮る。 「ごまかせると思ってるの? 馬鹿にしないで。早く、ちゃんと、筋道を通して説明してよ。この襟締め飾り(ネクタイピン)とこの写真のことを」  一歩、彼の座っているソファーに近寄った。髪留め(ヘアピン)を指で弄り、口元には嗜虐的な笑みを浮かべ、瞳を怒りに燃やす。  どうして気付けなかったんだ。夫の胸の中心で後悔が渦巻く。《オカオタ君が、なぁんとプロポーズしたい相手がいるですって》珍しい声色だからだろうか、こんな状況でも司会の声を認識できた。襟締め飾り(ネクタイピン)だってそうだし、何より写真だ。尾行にさえ気がついていればこんなことには……《実はずっと付き合っていた人がいるんです。五年くらいですかね》オカオタタカキの重低音でようやく妻がテレビに気付いたらしく夫から視線をはずした。 《それも一般人なんですって》  おぉ、と観客がどよめく。少しでも妻の気が逸れてくれたことが嬉しくて、夫はこのまま永遠に番組が続いてくれればよいのに、と半ば本気でそう祈った。《そうなんですよ。テレビ、見ているかなッ、おーい見てる? あっ、返事がくるわけないか》観客の笑い声。瞬間、妻が彼の視界から消えた。《由梨絵さん大好きだッ、結婚してくれ! オレが贈ったジギタリスの髪留め(ヘアピン)……》ピッ。  夫はテーブルの近くでリモコンを握り締め俯いている妻を発見する。由梨絵の青ざめた顔。夫の視線の先には青紫のジギタリスの髪留め(ヘアピン)が美しく輝いていた。  携帯の着信音。夫は反射的に開いてしまった。《あの娘》からだ。  文面は……。 [大成功! これで邪魔者はいなくなったね。画像送るから見てね♪]  添付された画像は三枚。妻が持っていた写真。妻がオカオタタカキから髪留め(ヘアピン)を渡されている写真。二枚の写真を手に満面の笑顔をうかべる《あの娘》の写真。  着信。開く。文面。 [逃げるなよ]  夫は気絶した。
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