哀しさ

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哀しさ

 止めろ! 離せ! 離せって言ってるだろ! オラッ、どけッ。オレに触るなッ。クソッ、わかったよ。入りゃいいんだろ、入ればよ! 入るよ……どけッ。男に触られると虫唾が走るんだよ。なんだっていうんだよ、クソッ。  あっ。  ……ああ、そうか。なるほど。あんたがいるってことは、オレは実験動物ってわけだ。なるほどね。なるほど……ふうん、へえ、そうなんだ。  最低だな。  あんたの研究ならよく知ってるよ。人格の書き換えだっけ? そんな大層なことしてるくせに身の回りのことは何も知らないんだな。え? ははっ、お互いさまってことはないだろ。オレはあんたのことをよく知っているよ。本当、嫌になるくらいな。  へえ、そうかい。ふうん。知識は変わらないし記憶も変わらない。ただ、順を追って幼少期へ人格が逆行していく。口調と語彙力だけが戻っていくんだな。なぜロールバックするのかというと、自我が凝り固まっていない幼少期のほうが別人格を刷り込みやすいから。 知識や知能は変えられない。しょせん人格の奴隷だからか。まるでフロイトの寝言みたいな理屈だな。まともな学者なら嗤うと思うぜ。あ? 正確には違うって? んなことどうでもいいんだよ。オレの学力はあんたが一番よく知ってるだろ。  けどあんたは勘違いをしている。いや、理屈の事じゃない。そんなことはあんたらみたいなイカれた人間が勝手に考えてればいい。オレがいいたのは人間の性質だよ。一席ぶたせていただくが、人間はそう簡単には変わらない。きっと失敗するな。凶悪な人格を持った人間をたかが洗脳で修正するなんて不可能だよ。あんたらは人格なるものを重く見すぎている。だから人格の変更ですべてが解決できると思ってやがる。もっと複合的なものなんだ。人間の本質はそう簡単に変えることはできないよ。  あとは、まあ……これはあんたたちに直接は関係ないかもしれないけどよ、こういう洗脳装置が出てくると決まって、個性の剥奪だとか人間の単一化だとか宣う輩がでてくるけどよ、本っ当に馬鹿だよな。どんな世界にだって絶対の正解なんてありはしない。管理しやすい人格について絶対普遍の定見なんてありはしないんだよ。けど絶対的な不正解はある。幼児を殺さずにはいられない人格とかな。そして複合的な不正解に近い人格もある。そして、そういう世界では決定権を持った人間が持たざる者を好みに修正できる。そのほうがリアリティがあるって思わないか? いままさにこの瞬間のことだよ。  オレは複合タイプだな。じゃあ、オレの何が不正解なのか? さすがに公的な機材を使うのにあんたの個人的な事情で対象を選ぶってわけにはいかないだろう。そりゃあ、それも少なからずあるだろうが表向きの理由を用意しているはずだ。身体か? 心か? もしくは両方かな? それとも単に暴力志向があるからかい? この清浄なる世界に不適当だものな。オレって存在は。  さて、あんたはオレにどんな人格を望むか。オレには手に取るようにわかる。どうせ家族に優しく、言葉遣いも柔らかで、けれど慇懃無礼ではなくてユーモアも忘れない。まあそんなところだな。なんだ、図星か? なあ、家庭を顧みずにいたのによくそんなこと考えられるな。はははっ! おい、どうした。顔が赤いぞ。  あ。  …………ああ、そうか、いまのがそうなんだな。おれはもう一段前に戻されのか。……高校くらいかな。せっかくだから実況しよう。さいごの親切だな。目が届く範囲で特に変わった様子はない。肉体には影響がないと判断してもいい。よくできているよな。部屋に充満しているガスなのか、それとも天井の妙な機械なのかな。それとも、もっと別の何かが……なあ、もう止められないんだよな?   ああ、そうだよな。  本当に、最低だな。  あっははははは。  帰ったらリビングの左から二番目の食器棚をよく探しなよ。おれが言いたいのはそれだけだ。きっと驚くだろうから。  あ。  あたしが好きな言葉教えてあげようか? 後悔先に立たずだよ。けど、あんたにはまだ選択肢があるんじゃないの? まだ間に合う。言葉には裏と表がある。そういったのはあんただったよね。あんたが教えてくれたことのなかで、一番好きなんだ。だからさ……ねえ、次はどこまで巻き戻すの? どこまで行ったら……。  あ。  あ。  あ。  ……始めるの? また、やられた。いまは、たぶん、小学生くらい。……ケムリも天井も、消えた。あ、ちがうのが出てきた。そっか。ここが分かれ道なんだ。……ねえ、ほんとうに、もう、止められないの? もし止められるなら……お願い。もう分ったでしょう? わたしがなにを考えているのか。ねえ、お願い、周りの人にもそう言ってよ。どうしてあの人たち、あんなに怖い顔で見てるの? 怖い。やめさせてよ。あっ、伸びてきた。……助けて、お願い止めて! やめて、嫌だわたしが消えるのなんて。助けて、止めさせて、お願い、お願いだから、ねえ、お願い! 助けて! 怖い! 怖い! お願い! お父さん! 助けてよ。お父さん! お父さん! あ。  あ。  ええ、ありがとう。大丈夫です。ここからは一人で歩けます。  ああ、ここにいたのね。待っていてくれてありがとう。これで私も正しい私になれたね。こんな私に、あんなにたくさんのお金を使って矯正してくれて、本当に感謝しています。これからはたくさん親孝行するね。だって、たった一人の肉親ですものね。さっきは乱暴な言い方をしてごめんなさい……私、プレゼントを買っていたの。ずっと帰りが遅かったのはアルバイトで忙しかったから。だから、どうか怒らないでくださいね。  ……どうして泣いているの、お父さん。
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