世界は喜びに満ちている!

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世界は喜びに満ちている!

 治療(ダイブ)を始めます。 ――――――  ここは最高の世界、素晴らしい世界、理想の世界。みんなが優しいし、誰もぼくを傷つけたりしない。そんな人たちで溢れてる。だからぼくは生きていける。だからぼくは学校にいる。だからぼくはここにいる!  「やあ、蓮くん」  真田くんだ。彼はとっても身体が大きいけれど、とっても優しい。いつもニコニコしていて、絶対に暴力をふるったりしない。けれどスポーツは得意。  おはよう、真田くん。今日はみんなでサッカーをやろうよ。  真田くんはにっこり笑って頷いた。クラスのみんなが集まり始めた。そうだ、みんなでサッカーをしたら楽しいに決まっている。今日も空は晴れている。絶好のサッカー日和だ。みんなはまるで群れた魚みたいに教室を飛び出して、グランドに散らばっていった。いつものように自然と二手に分かれた。リーダー格の真田くんと百田くんがじっとぼくを見てくる。ぼくを熱望している目だ。ぼくは運動も得意だから仕方のないことだよね。今回は真田くんのチームに入ろう。  キックオフ。クラスのみんなに、そして他クラスのひとたちも参加しているからとても規定の人数には収まりきれない。だからポジションも何もなく、みんなが無軌道に動いている。ぼくはみんなの動きを冷静に観ている。あっ、ゴール前が開いている。チャンスだ!  飛び込むとちょうど切り込んできた真田くんがクロスをあげる。  しまった。  山なりにカーブを描いてボールはぼくの頭を素通りしてラインを割ってしまった。 「ドンマイ、ドンマイ」  真田くんがすぐに駆け寄ってきてくれた。 「珍しいね、君がそんなミスをするなんて」  うん、ちょっと合わせられなかったよ。 「まあ、仕方ないよ。あれに合わせるには、ちょっと背が低すぎるからね」  は?  いま……ぼくの背が低かったから失敗したと言った? ぼくの背が低いせい? ぼくがチビだから仲間に入れてくれない? 馬鹿にしたのか? いや、そんなはずないよね。だって真田くんは優しい人だから。そんなはずない。そうだよね、真田くん。 「はい」  真田くんはわらっている。ぼくよりずっと背が低いのに、真田くんは努力家だからぼくと同じくらいサッカーが上手い。……驚いちゃったなあ、もう! けど、あのヘディングは惜しかったね。ぼくの身長だったらバッチリ決めれたのにね。 「すみません」  電話が鳴っている。  電話?   …………そんなはずないね! だってここはグランドだもの。ここに電話なんてあるはずがない。  そんなのは間違っている。  電話の音が消えた。なんだ、勘違いだったのか。  そろそろサッカーはお開きにしよう。みんなはスムーズに片づけを初めてくれた。まっすぐ帰りたいところだけど、図書館に行かなくちゃいけない。今日が期限の本がある。  廊下は、真っ直ぐ、そして図書館は、そこに、ある。 「あっ、漣」  水本さんだ。クラス一の美人でぼくの恋人。彼女がどうしても付き合ってほしいと泣いてお願いするものだから、断るのも悪くて付き合うことにした。 「今日も一緒に帰って、いい?」  とても綺麗な声だ。澄んでいて純粋で、とても聞き心地が良くて、罵りなんて考えられない、酒に灼かれていない「ああ」煙草に毒されてもいない「……見つけた」淑やかで、純潔で、ありのままの……。  ん?   何か言った?  「えっ? だから、その一緒に帰らない、って……」「彼女ではありません。ボールペンです」嫌な声。は? 胸ポケットから聴こえる。「私は精神」はっはっはっ! そんなはずないよ。「科医の」ははははははは! 「漣、どうしたの?」なんでもないよ。  そんなはずない。だってボールペンは喋らないもの「落ち着いて聞いてください、橋本さん。私はボールペンではありません。橋本さん、どうか」はっはっはっ。どう考えてもボールペンが喋ってるのに「橋本さん」はははまさかねボールペンではないありえないよなにを言ってるそんなわけないボールペンは「橋本さん!」喋らないああ疲れているのかな「橋本さん……」そうに決まってる。だってボールペンが喋るはずがない「……どうか、私の話を」のだから。  なにか聴こえたかな、水本さん? 「いいえ」  そうだ。だってそんなのはおかしいことだから「どうか落ち着いて聞いてください」やめろ「時間がありません」よせ「単刀直入に言います」言うな「この世界は」そうだ、壊せば「違います」もう、「橋本さん」喋らない「私は橋本さんのご家族に依頼されて」そうしよう。  ボールペンは音もなく簡単に折れた。  何も聞こえなくなった。ほら、やっぱり幻聴だったんだ。  帰ろう。  空が虹色に渦巻いている。……なんて綺麗なんだ! 素晴らしい! こんなに美しい世界にいられるなんてぼくはなんて幸せなんだ「橋本さん、どうか」うるさい「お聞きください」どこだ「ここは現実ではありません」走る家へ走る逃げろ耳元から聞こえる「貴方が作った世界なのです」うるさいうるさいうるさい「このままでは貴方は帰れなくなる」わかった眼鏡だ。壊れた。よかった。これでもう「ご家族は心配されています」なんで続いてるんだ「どうか落ち着いて」やめろクソッやめろって言ってんだろ! 走れ! 走れ! 家に帰らなくては鞄か鞄が怪しい鞄だな「それを壊しても」消えない「私は消えません」下から聞こえる靴か「少しでいいのです」消えない「このままでは貴方は」わかった。全部壊せばいいんだ。  すべて壊した。何も身に着けていない。恥ずかしくはない。だってこの世界にぼくを嗤うような人はない。だから少しも恥ずかしくはない。やった、勝ったんだ。 「せめて一つ前まで戻りましょう」  空に顔が現れた。短髪の黒髪、眼が大きく皺は多くない童顔、唇は薄く鼻は小さいが耳は大きい。顔がいる。顔。反吐が出る「ここは危険です。せめてもう一つ前に戻れば機材介入が」糞以下「可能になります」ゲロ「ほんの少しだけ勇気を出してください」ごみ「一歩戻るだけでいいのです」ごみ「お願いです」くそごみ「お母様は」やめて、言うな、お願い、よせ、言わないで、消えろ! 「消えろ!」  世界が弾けた。  顔が消えた。世界は元通りに戻った。壊した眼鏡は元に戻っているし、ちゃんと服も来ている。いつもの住宅街。帰り道だ。空は青く晴れ渡っている。あれはなんだったんだろう。白昼夢だったのかな。  そうだ、絶対にそうだ。そうだ、あれは違っている。こちらが正しい。  ぼくが正しい。  この世界はとても楽しい。チビの真田勝が憧れの眼でぼくを見ている。当然だ。ぼくのほうがサッカーが上手いし、頭だっていいのだから。でもぼくは彼を小突いたりしない。人間ができているのだ。水本菜月は澄んだ声でぼくに愛情を伝えてくれる。彼女は声優崩れでもないし酒におぼれてもいない。タバコも吸わない。真田の家に行ったりもしない。ぼくを見てくれる。ぼくを罵倒したりもしない。ずっと純潔なままでいてくれる。  ああ、楽しい。みんな良い人ばかりだ。だから、ぼくだってずっと良い人でいられるんだ。この世界は楽しい。この世界は素晴らしい。絶対に守るべきだ。  世界は喜びで満ちている! ――――――  申し訳ありません。かなり奥まで潜ったのですが……ご子息を説得できませんでした。……私の力不足です。ご期待に沿うことができず、本当に……いえ、そんな……はい、手は尽くしましたが、ああまで拒絶的では……モニターでご覧になっていた通りです。もう……いえ…………そうですね。はっきり宣告しましょう。もう目覚めません。彼は向こう側にいってしまったのです。…………はい。現在の制度では安楽死を……。
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