一夜限りの友情

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一夜限りの友情

 裏通りでひっそりと営業している上品なバー、知る人ぞ知るその名店のカウンター席でしたたかに酔っている身なりのいい男。彼の隣に一人の女が座る。いい女だ。目があった瞬間、言葉を交わした刹那、指先が触れ合ったそのとき、彼らは同じことを考えていることに気づく。そして交わされる一夜限りの契り。それはいつの時代でも(ちまた)で囁かれる大衆の夢。  そう、それは夢。 「がっかりしたかな、そんな出会いじゃなくてさ」  暖かな風が吹き、二人は同時に含み笑いを漏らした。山中は甘ったるいミルクチョコレートの最後の一片を噛み砕き、コーラを一気に飲み干した。チョコレートとコーラの同じように単純な甘味が口の中で喧嘩するものだから、後から加わったコーラは必然として劣勢に立たされ、その味を損なっているような気がした。だが、初夏の生暖かい風のせいなのか、満月があまりに綺麗だからか、ほとんど炭酸が抜けたコーラでさえ山中には心地よかった。彼らはどちらから言い出したわけでもなく小石を蹴りながら歩いている。山中は空っぽになったペットボトルで自分の額を軽く叩いた。軽い感触と小さな雫の冷たさが疲れを溶かしてくれる。  隣の男はにやり得意げに笑った。 「ぼくらはたとえ男と女で出会ったとしても同じ関係になっていたよ」  どんなセクシャリティでも、という言葉を省略したのはそれが言うまでもないことで、同時に彼らが本気でそう考えている証でもあった。ふと、彼の気配が消えたことに気づき、山中が立ち止って振り返ると、その男はまた小石を見失ったらしく、脇道を足でまさぐっていた。これで三度目だ。目があうと恥ずかしそうに笑った。 「そんなに石蹴りが下手なのにサッカーが好きなんてねえ」 「これは引用になるけど、カエサルを理解するのにカエサルになる必要はない。名選手が必ずしも名監督とは限らないのと同じ理屈だね。ああ、それで思い出したけど、去年のプレミアリーグがまさに波乱でさ……」  彼はとくとくと欧州サッカーリーグの顛末を語る。彼の話に相槌を打てることが山中には不思議だった。山中はサッカーのことがまるで分らないのに、彼の口から発せられると知らない専門用語や聞きなれない外国人の名前の全てが魅力的にきこえた。  二人に共通点はなく人間的なタイプも違っていた。しかし、出会いの場となった薄暗いバーで彼らは意気投合した。酒を酌み交わして語り合ったが共通の趣味すら見つからない。山のように会話を重ねて辿りついたのは、彼らの唯一の共通項は最近買った靴が安物のサンダルということ。それが分かった瞬間、二人は同じタイミングで吹き出し、同じように大笑いし、同時に店を出ることを決めた。  会話は話し手と聴き手を入れ替えて続いた。サッカーからバラエティ番組、男の手料理、料理本、電子書籍と移り変わり、タブレット端末になると、一転して機械にまるで疎い彼も山中の話を興味深げに聴き、良いポイントで相槌と質問を挟んだ。続けて山中が腕時計のことを話そうとしたとき、そのことに思いが至った。 「もう二時間も経ってる」 「野外で時間を忘れていられるなんて、最高だね」 「こんな時間まで歩き回わるのなんて何年ぶりかな」  かなり歩いているはずなのに、市街地からそれほど離れていないのは偶然だろうか。無意識に遠くに行かないようにしているのかもしれない。やがて河川敷が見え始め、自然とそちらに足が向いた。河川敷に上がると、草むらから懐かしい匂いした。  隣の男が立ち止った。  どうしたのか、と山中が言いかけたその瞬間、彼は小石を強く蹴った。河川敷を転がっていく。音もなく小石は川に沈んだ。 「タバコ持ってない?」 「持ってない」  ほとんど反射で答えていた。山中は自分自身の言葉に驚き、それ以上に小石を蹴った男は目を見開いているのに気付いた。石をなくした男は囁くような小声でつぶやいた。 「そうか。じゃあ、もう少しだけ」  何が起きたか分からなかったが、彼の言葉の意味は分かった気がした。  無言のまま二人は歩く。開けた場所に出たからなのか、風が少し強くなった。暗がりのなか煌々と灯りを放つ自販機の前で二人は立ち止った。山中は持っていた空のペットボトルを捨てた。傍らの男は硬貨を投入して無糖の缶コーヒーに指を伸ばしたが、やや迷いながらメロンソーダのボタンを押した。月明かりの下、彼はゆっくりとメロンソーダを飲んだ。まるで炭酸が身体に堪えているかのように。  山中だけが小石を蹴り続けている。 「……なあ」 「ん?」 「将来の夢の話をしよう」  あまりに唐突だった。しかし夢という言葉は思い出を甦らせた。山中は頭に思い浮かんだことを口にした。 「小学校のころは宇宙飛行士になりたくて……」 「おいおい、よしてくれよ。ぼくらはそうやって過去を振り返るには若すぎる。いまの夢を語ろう」  話を遮られたと気づくことにすらタイムラグが生じた。山中は立ち止り、やや遅れて隣の男も歩くのをやめた。山中は驚きを隠せなかった。隠すという発想にすら至らなかった。しかし、徐々に郷愁よりもずっと温かいものが心に昇ってきた。しかし、言葉に詰まった。 「確かにその通りだ。……すぐには思いつかない。先に話してくれよ」  山中の頭に雑多な言葉が浮かんでは消えていく。平社員、給料、家、結婚、子供、独立、確定申告、病院、未来、会社、上司。渦巻く言葉は山中の心に薄い霧を撒き散らす。パスを受けた男はやや考える仕草をみせた。 「ぼくは政治家になりたいんだ。政府の要職に就いてこの国を良くしていきたい」  照れくさそうに彼はそう言った。山中は驚きで思わず足を止めてしまった。彼の口ぶりから親の地盤を引き継げるわけではなく、公的機関に勤めているわけでもないことはわかる。そんな人間がこの年齢から要職に就けるほどの政治家になるなんて、少しでも教養のある人間なら一笑に付すだろう。自分も今日でなければそうしていたかもしれないし、嘲笑っていたかもしれないという自覚もあった。けれど今夜は特別だ。どんなことがあっても彼を嗤うなんて、山中には考えられなかった。 「……じゃあ、立候補の時は声をかけてくれよ。これでもマーケティングのプロだから役立てると思う」 「そのときはお願いしようかな。で、君の夢は?」  彼の夢を聞いたとき山中の頭に浮かんだのは、仕事にかまけて怠っていた長年の趣味のことだった。彼は宇宙飛行士と同じくらい、自然と口にしていた。 「実は学生のころから英語が趣味でね。いつか自分が目を付けたド新人の小説を翻訳して日本に紹介するのが夢なんだ」  隣の男は大袈裟に目を丸くした。 「驚いたなあ。まさか君にそんな趣味があるなんて」 「おれみたいな男が、と思っただろ。よく言われるけど、おれは猪みたいな見た目のわりに知性があるんだよ」 「まさか。ぼくは外見で人を判断しないよ。ただ、君との会話に言語センスを感じなかっただけ」 「言うじゃないか。政治家になったら舌禍に気をつけたほうがいい。第一、政治家ってやつは……」  雲一つない満天の星空。河川敷はこの季節特有のすえた匂いを漂わせ、虫たちが輪唱を繰り返す中、彼らは歩き続けた。二人は喉と脚を酷使し続け、何度か同じ話題を選んでしまい、それに気づくと二人は口を大きく開いて笑った。いつのまにか、山中は小石を見失っていた。そんなことにも気づかないくらい、彼らは喋り続け、笑いあっていた。  しかし、終わりは訪れる。 「そろそろ、帰らないと」  まだもう少し、と飛び出しかけた言葉は途中で消えた。それを無思慮に口にするほど山中は愚かでも幼稚でもなく、彼の暗い声色はそうさせるに充分すぎた。 「そうだな。もう時間も遅いし……きょうはありがとう。楽しかったよ」 「こちらこそ、楽しかったよ。……じゃあ」  また今度とは言わない。名も知らぬ男が橋を渡って夜の帳に消えていくのを、山中はただ黙って見送った。  彼の姿が完全に見えなくなると、山中は彼とは逆に市街地へ歩き始めた。いつもならタクシーを拾うところだが、どうしても素直に帰宅する気になれず、シャッターが目立ちはじめた市街地を彷徨った。疲労を、彼は自覚した。かなり歩いたような気がしていたが、時計を見ると、彼と別れてからまだ十分も経っていなかった。  なぜか身震いが止まらなくなった。  たまらなくなり、目についたスナックに駆け込みボックス席に座った。法に則った店らしく女の子は席に座ることなく、注文を聞くとカウンターから品物を持ってきてすぐにどこかに行ってしまった。酒と肴を見てようやく落ち着いてきたのか身震いも止まった。彼は胸ポケットにタバコが入っていることを唐突に思い出した。  煙草に火をつけ肺いっぱいに吸い込み吐き出す。カカオが八割を占めるチョコレートを齧り、強い琥珀色をしたブランデーを咽喉の奥で楽しんだ。  うまい、と思った瞬間、彼の動きが止まった。理解が、彼を駆け巡った。あのとき口にしていたものが、そしていま口にしているものが、何を意味しているのかを理解してしまった。  もう戻れない。  紫煙が肺に入らず噎せかえったことも、ビターチョコの耐え難い苦味に悶え苦しんだことも、蒸留酒の燃えるような刺激に咽喉を灼かれて涙を流したことすら、もう思い出せない。  彼とはもう会えないだろう。  もしかしたらそれは恋よりも遥かに貴重で、ずっとかけがえのないものだったのかもしれない。恋の権利はすべての人に与えられているが、この夜に体験したそれは少年のためにあるものだから。ただそれだけのことなのに胸が苦しく、そしてなぜか嬉しくてたまらなかった。
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