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贈り物の意味
死を固く決意するほど彼は強くはなく、同じ文脈で愚かでもなかった。だが、漠然と抱き続けたその想いが実を結びつつあるのを止められるほどの強さも、そして同じ文脈で愚かさもなかった。
優の人生は惨めで、そして恵まれていた。ほとんど自分の意思はなかったとはいえ有名な児童劇団に所属できて、それなりの実績を重ねることができた。成長してからは劇団の勧めに従って声優業へシフトする。両親の意向というコンクリートで舗装された綺麗で平坦な道を彼なりの歩幅で歩いてきたつもりだったが、いつからか仕事は減っていった。もちろん指名を受けることはほぼなくオーディションも連戦連敗。養成所上がりのド新人にオーディションで競り負けた時、優は生活のためにこのバイトを始めた。なぜこうなったのかと考えるが答えは出ない。芝居の稽古やレッスンと称した珍妙な訓練も怠ってはこなかった。誇るほどの猛烈さはなかったが恥じるべき怠惰もなかった。彼はいつも勤勉にスケジュールをこなし、スケジュールにないことは遠回しに拒絶した。彼を嫌う人はいない。彼を拒絶する人はいない。なぜなら……。
もう終わりにする。彼は心に湧き上がるその感情を否定できない。だからあとはやり方を考えるだけだ。
「先輩、商品陳列終わりましたよ」
いつものように屈託のない笑みを浮かべた平村がレジに戻ってきた。
住んでいるアパートから徒歩で数分だが駅からはだいぶ離れているやや寂れたコンビニエンスストアが彼の勤め先になる。昔は週に二日四時間労働と最低限度の生活資金をと考えていたものが、いまではほぼ毎日七時間は働き、隙間の時間のほとんどをオーディションや稽古に費やしている。そう考えるとずいぶん声優の仕事をしていない。だからなのか、と彼は考えたがどうも違う気がした。間違いの箇所はわかるが解答はわからない。だから、もうどうでもいい。
「じゃあ、いまのうちにトイレ掃除入ってもらえる?」
平村は快活な返事とともに掃除道具を取りにバックヤードへ戻った。彼は十九歳で大学を中退した、もしくはほとんど通っていない、そのどちらかだったことは覚えているが詳しい素性についてはほとんど何も知らない。唯一、確かなのは平村が彼に好感をもっているということだけ。
日付が変わった。客は立ち読みをしている若い男が一人だけだったが、零時を回った瞬間に雑誌を元に戻して出ていった。静まり返った店内で、彼は日付スタンプを更新し、レジ操作や雑誌売り場の整頓といった定時作業を淡々とこなした。作業中も客は一人も来なかったのは、ここが東京都とは名ばかりの平地の田舎だからなのだろう。繁華街ならこうはいかなかったはずだ。
「それにしても今日は少ないっすよね。平日にしてもここまで人が来ないなんて、いよいよここも……」
掃除を終えたらしくいつのまにかレジに戻り、気だるげにパンフレットをめくっていた平村は相変わらず温かい笑みを浮かべた。程度の差こそあれ、大抵の者が平村の笑顔にほだされ、場合によっては勇気づけられ、もしくはどうしようもなく魅了される。それをわかってやっているらしいと優は考え、だから特に拒絶はしなかった。
「それはサボる店員がいるからじゃないかな」
「いやあ、いいじゃないですか。客なんていないですし、しかも今日は店長もいないんですよ。固いこと言わないでくださいよ」
平村はレジ裏の雑貨置き場にあるお茶に手を伸ばした。
「給水はいいけど、ちゃんと隠れてね」
という優の言葉に棘がないのは、店内に客がいないのだからそう神経質になる必要もないと思ったからだ。平村は軽く頭を下げて見えない位置にさっと後ろに下がった。
「そういえば、先輩はここ以外にどこか掛け持ちしてたりします?」
「いや、ここだけだよ」
「おれ、掛け持ちしようかなって思ってるんですよ。まあ、どこもコンビニなんて最低賃金なんでしょうけど、下手に自給高いところいくと今度は心身を痛めつけられるんですよね。どうしようかなって思ってるんですよ」
「まあ、そうかもね」
「工場系にしようかなとも思ってるんですけど、そういうところで働いた経験とかないですか?」
「いいや」
「じゃあ、知り合いには?」
「それもないよ」
徹底した受け身。会話と呼ぶにはあまりに一方通行のそれは一貫して平村のリズムで続いた。毒気のない愚痴や社会批判から近所の犬の調子、最近読んだ本、物理学や化学のこと、新進気鋭のテレビタレントからファッションブランドの動向。早い時期から自分の進む道を決めてしまっていたからか、それとも生来の性格なのか世事に疎い優はほとんどすべてが初めて聞くことばかりだったが、ほとんど右から左に聞き流していた。なのに、不思議と嫌な時間ではなく、それは平村も同じみたいだった。話題は再び彼の壮大な夢へと繋がり、以前聞かされたものとは全く別の理論を彼は得意げに展開した。そして、いつものくだりに差し掛かる。
「……まあ、そういうわけで、おれはタイムマシンを作ります。世界初の時間旅行者になるんですよ。これはもう、人類の歴史に大きく名を残しますよ! というわけで、サインどうです? いまならいくらでも書いてあげますよ」
「いや、遠慮しておくよ」
底深い井戸のように手を変え品を変え次々と話題を提供する彼が繰り返し口にするのが、このサインのことだった。親しくなって、すくなくとも平村が積極的に話しかけてくるようになってから、定番の話題だった。
さぞかし社交的な男なのだろうと思っていたが意外にも他のバイト仲間にはそれほど饒舌ではないらしい。何か琴線に触れるものがあったのかもしれない。優もこの饒舌な自称科学青年のことは嫌いではなかった。
いまとなってはどうでもいいことだが。
「……そうっすか」
平村はいつものように口をすぼめて、誇張された渋面を作りメモ帳をヒラヒラと優の前で踊らせた。
「本当、あとで後悔しても知りませんよ」
彼なら本当にやるかもしれない、と思わせる魅力が平村にはあったが、全能感に浸っているとしか思えない若造の言葉を鵜呑みにするほど優は世間知らずでもなかった。第一、優にはタイムマシンの論理など欠片も理解できない。知識に欠ける彼は騙されることすらできない。
ああ、と優は小さく呻いた。そういうことだったのか。
「そろそろドリンクを頼めるかな? 終わったらそのままあがってもらっていいから」
零時三十分。いまだ客はいない。あと三十分であがりの平村がこなせる仕事はレジの対面の壁に並んだドリンク類を裏の冷蔵室から整理する作業くらいだろう。この場合のそのまま上がる、は終わったら時間まで暇を潰していてくれという意味だ。
「あっ、もうそんな時間ですね。もし混んだら呼び出し音を鳴らしてくださいね」
平村はゆっくりと自分の顎をさすった。嬉しいことがあったときの彼の癖らしいと気づいたのはごく最近のことだ。そして大方のバイトがそうであるように時間の進みを喜び、軽快な足取りで行ってしまった。あと三十分程度。優の勤務は三時までだが、それまでには店長も戻ってくるだろう。特にいい思い出もないが、店長には一言くらい伝えるべきだろう。店長との会話はそれが最後になるはずだ。
裏口の存在しないこのコンビニでは出勤も退勤も客用のドアを通らなければならない。平村に限らずたいていのバイトは帰り際にレジに寄って一言挨拶をしていく。だから、彼と言葉を交わすのはそれが最後だ。
入店のチャイムが鳴った。
「らっしゃいませー」
ほとんど反射で飛び出した言葉に続いて、彼は目視で客を確認した。年老いた男だ。青い作業服を着た白髪の男で、まるで誰かに見られるのを恐れているかのように背中を丸め、目だけをキョロキョロと動かしている。他に人影はない。どうやらその老人一人だけらしい。平村を呼び出すほどではないだろう。優はやりかけていた煙草の整理を中断してレジの定位置に着いた。おおかた煙草かフライヤーでも買いに来たのだろう。
老人はレジに立っている優に気づくと、悪事が母親にバレた幼児にように目を丸くし、腕時計を確認し、また優をみた。皺だらけの顔。綺麗な流線型の瞳が真っすぐ優を見つめる。この眼は、どこかで……と答えを探す間もなく、吸い寄せられるようにレジに近寄ってきた。
「あの、いかが……」
「何年、ですか?」
「え?」
あ、と声を漏らして老人は、ぶつぶつと何か呟いた。声が小さく早口でほとんどききとれなかったが、もしかしたら何かを伝えようとしているのかもしれないと、骨の髄までしみ込んだ店員精神が彼を操縦して老人へと近づけたが、話しかける前に老人が弾けるように言った。
「すみません、新聞はどこですか?」
「え、ええ。新聞でしたらあそこです。入り口すぐ左、コピー機の近く」
老人は新聞を掴むと震える手で一面の端の部分を凝視した。よく見えないがなにかショックな記事でもあったのだろうか。老人はやがて深呼吸をなんどか繰り返し、落ち着いたらしくレジに戻ってきた。
「……いま、店長さんはいらっしゃらないですよね?」
「え、ああ、はい。申し訳ありません。留守にしています。三時ごろには戻ると思いますが、よろしければ言伝をお預かりしましょうか?」
「これを」
脈略もなく老人はポケットから小さなメダルのようなものを取り出して、優の腕をとって捻じ込むように握らせた。老人の手のひらは乾燥して、傷だらけで、けれど温かかった。
「あの、どういう……」
「いいですか、どうか約束してください。このコインを……あと十年だけ保管してください」
「え? 私が、ですか?」
「はい」
澄んだ瞳が優を見つめる。どこか見覚えがある気がした。
「いまはガラクタですが、将来絶対に価値のあるものになります。ですから、どうか、希望を捨てないでください」
「その、貴方は……」
「私は本当に愚か者です」
優の言葉が聞こえていないかのようにその老人は続けた。話さずにはいられないように。
「人を見る目には自信があります。だからこそ少数ですが確かな人物と友になれました。彼らは私の話を聞くと快く力を貸してくれました。天文学の知識や実務財政、それに部品調達は彼らの力なくしては完成しなかったでしょう。ですが、観察眼は致命的なほどかけていました。私の友人がいまどのような状況で、どんなことを考えているか気づけませんでした。ここ最近、調子が悪そうだとわかっていたのに……」
酔っ払いだろうか。いや、違う。赤の他人に絡むほどの泥酔者ならもっと呂律が回っていないだろうし、もっと支離滅裂なはずだ。なにより老人の眼は理性に燃え真摯さに溢れていた。だから彼は口を挟めず、ただ老人の言葉を浴び続けた。
「それなのに私は何も価値のない、ただの紙切れを押し付けようとしました。ただ能天気に、何も知らず、馬鹿みたいに! ……後悔しました。表現しようもないほどの後悔を。身勝手と罵られようと、私は後悔したのです。考えて、考え抜きました。……償いはこれしかない。いま本当に価値があるものを持ってきたのです」
彼の悔恨は優を圧倒した。彼はコインを握りしめたまま老人の眼を見た。
「つまり、その……このコインを大切に保管すればいいのですか?」
老人は、まるで言葉の意味が理解できなかったかのように瞬きを繰り返し、やがて言葉を咀嚼するように頷き、笑みをこぼした。そしてゆっくりと顎をさすった。
「そう……その通りです。遠くない将来、それは大きな財産になります。ですから、どうかその日が来るまでは、どうか……」
老人は一瞬あらぬ方向を見つめた。
「今日考えていたことを実行に移さないでください」
「えっ」
「では、さようなら。どうかお気を付けて」
なにを、どうして、なぜ。そんな言葉が優の口から飛び出す前に老人は逃げるように店から出て行った。
残された優は一歩も動けず、呆然とし、しばらくして、握りしめたままだった手のひらを開いた。
コインは黄金色で中央に草木と地球らしいものがデザインされ、文字は見当たらない。ただ、下方には2030と刻まれている。裏は一面に何か厳めしい建物らしいものが彫られている。大きさは一円玉より一回り小さく、日本で流通しているどの貨幣でもない。
手にあるのは確かな物体。そして頭の中は疑問で溢れた。
どうして自殺を考えていたことを知っていたのだろう、なぜこんなコインを渡したのだろう、老人は何者なのか。なぜ、どうして、なにゆえ、どういうわけで。湧き上がっては消えていく疑問に明確な答えを出すことはできない。ただ、どうしてか最後まであの老人に好感を抱いていたのは確かだった。
「なんですか、それ」
私服姿の平村がいた。時計が一時を指していることに優はようやく気が付いた。
「さっき来てたお客さんが渡してくれたんだよ」
へえ、と平村はコインを覗き込んだが、たいして興味もなかったのか、すぐに顔を引いた。そして皮肉な笑みを浮かべた。
「そんな妙なコインは受け取るのにおれのサインは受け取らないんですね。こっちのほうが価値が出るのに。後悔したって知りませんよ。まったく……」
あっ。声にはならなかった。それほど大きな一閃だった。
「けど、まあ、なんか元気そうでよかったですよ。なんだかここ最近、元気がなさそうでしたから」
平村はゆっくりと顎をさすって笑った。
紙切れ、仕草、状況、関係性。
ああ。今度は呻き声が漏れそうになった。閃きは、確信に変わった。
優は再び手のひらの贈り物を見つめた。
コインの意味は分かった。そしてあの老人が誰なのかも。どうして自分のことを知っているのかも。すべて理解できた。心の奥から何かが湧き上がってくるのを、優は感じ取った。気力や意志、喜びや感謝が混ざり合ったそれは、確実に彼の身体に広がった。
このコインを手放してはいけない。それよりもずっと価値のあるものをもらったのだから。そして、いまからやるべきこともわかっている。なにをすべきか? それは……。
「じゃ、お疲れッした」
顔を上げると平村が出口に向かっているのが見えた。
「あっ、ちょっと待って」
「え? どうしたんです?」
流線型の綺麗な瞳がまた彼を見た。
「ちょっと話したいことがあって。いいかな。あっ、時間がないのなら……」
「いや、いいですけど……そっちから話しかけるなんて珍しいですね」
戸惑いにも満たない微かな表情が平村の顔に浮かんだ。
「あと二時間くらいで勤務が終わるから待っていてもらえないかな。つまり、その……飯でも食いに行かない?」
今度ははっきりと困惑の顔になった。まさか優からそんな言葉を聞けるなんて思いもしなかったのだろう。そして浮かんできた笑みはそれと入り混じって、柔らかな表情を作った。
「突然っすね。どうしたんすか?」
どうして? なぜそんなことを考えたのか。どうして自分は行き詰っていたのか。なにが欠けていたのか。言葉が優の胸の中で渦巻き、すべての解答になった。
優はニヤリと笑った。
「君のことを知りたくなったんだよ。未来の天才科学者君」
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