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スケッチ:コーヒー
作業はひと段落して、ちょうどお湯が沸いた。一休みしたら買い物に行こう。夕飯の準備はそれからでも充分だ。
お湯の入ったケトルを持ってリビングへ。安物のドリッパーにはペーパーフィルターをかけて粉も敷いている。まずは軽く一周、ほんの少量お湯を垂らして粉を蒸らす。慌てないでゆっくりと定速を意識し円を描くようにお湯を注ぐ。本当は定量を定速で注ぎ続けるのが良いと聞いたことがあるが、さすがにそこまでするつもりはない。サーバーに視線を移す。そこにあいた一つの穴から、ゆっくりと黒い雫が落ちていく。
窓から秋風がふきこんできた。
淹れ方に強いこだわりがあるわけではないが、簡略化したマニュアルに従うのを躊躇するほどものぐさではない。ドリップは続く。ぽつ、ぽつと一定の間隔かと思えば、トトトトと数滴連続で落ちることもある。それを見ている間にドリッパーのお湯がなくなる。それからは繰り返し。お湯を注ぎ、水滴を眺め、またお湯を注ぐ。深い黒の液体がちょうど定量通りにサーバーに貯まった。
薄い茶色で彩られたカップはほんの手のひらサイズだが、なかなか凝った装飾だ。全体的に波打ち際に捨てられて腐食を思わせる凹凸が施され、極めて薄いグリーンが中央部に点在するのも相まってか、文章で表現すると下品な代物としか思えないが、凹凸の規則性が絶妙なのかそれとも取っ手の部分が海洋生物の腕部を思わせることに気づいたからなのか、もともとの私の趣味が変わっているからなのか、それともこのカップがどこか寂しさを感じさせるから……なんて詩人のようなことを考えてしまうけど、とにかく素晴らしいの一言だ。陶器市で一目惚れしてかなり高価だったが衝動買いしてしまった。ここ数年で一番のお気に入りだ。
音もなく滑らかにコーヒーはカップに流れ込んだ。
コーヒーは円形の吞口に揺蕩っている。少し揺らして顔を近づけると食欲を掻き立てる芳ばしい香りが漂ってきた。もう一度揺らす。ただただ黒く、何物も映さない液体。
一口、啜る。
ああ、美味しい。
特に変わった銘柄ではない、スーパーで売っていた安物のコーヒーなのに、こんなに美味しく感じるのはどうしてだろう。やはり器のおかげだろうか。もしくは、ここが自宅で私がリラックスしているからなのかもしれない。コンディションが味覚に与える影響は軽視できない。さらに一口、啜る。苦味が舌先に染みわたり、そして喉の奥で特有の旨味が広がる。香りが鼻に昇り、液体は喉を落ちていく。
傾き始めた太陽の光が、リビングの窓からフローリングに差し込んだ。そういえば読みかけていた雑誌があった。どこに置いたかな……ああ、あった。そうだ、冬コーデの特集の号だった。栞が挟まれたページには落ち着いた色合いの衣服が上品に配置されていた。トレンチコートやニットはあまり好きじゃないけど、このスカーフはいいかもしれない。
なにか食べよう。冷蔵庫にまだ残っていたはずだ。……あった。
表面をチョコレートでコーティングされたクッキー。一口齧る。チョコレートの濃厚な甘味、そしてクッキーの焼かれた小麦のほんのりとした甘さが相乗する絶妙な配分のお菓子。柔らかいが食感は失っていないそれが口の中で水分を吸収して溶けていく。必然、のどが渇く。だから、コーヒーを流し込み、水分を補う。苦味は甘味を強調し、甘味は苦味を強調する。ああ、これだ。もう一度のそのプロセスを繰り返し、一度カップを受け皿に置く。
セットで販売されていただけあり、受け皿はカップと同様に凝った海洋調のデザインだが、それが円形だからなのかより規則的で調和を思わせる。カップを置くときの軽い音がまた気持ちいい。雑誌は中盤に差し掛かった。
そうだラジオをつけよう。リビングに常備してあるポータプルラジオを起動して、周波数を調整する。ちょうどCMが流れている。本当に県北に住んでいてよかった。ここのラジオより向こうのほうが圧倒的に面白いのだから。どうして他県なのに聴けるのか、ラジオの理屈は何度も息子に説明されたけど、一向に理解できる気がしない。これだけ聴いている時間が長いのだから有料ソフトを導入してもいいかもしれない。
始まった。一番好きな番組。オタクな青年のパーソナリティーが面白おかしくトークをしてくれる。あっ、またガンダムの話をしている。本当、この人はマ・クベの物まねが好きだなあ……。
食べる。そして、飲む。一呼吸おいて、雑誌に目を移す。色とりどりの衣服と装飾品が並び、ユーモアたっぷりのコラムも見逃せない。番組は移り変わり、ニュースや歌番組、それに長々とCMも挟まる。また、コーヒーを飲む。苦くて、苦くて、だからたまらなく旨い。クッキー、雑誌、コーヒー、ラジオ……。
カラスの鳴き声が聞こえた。
コーヒーは薄い痕跡を残して消え去り、お菓子もなくなった。さあて、もう夕方だ。愛する家族のために夕食を作ろう。もうそろそろ息子が学校から……。
……あっ、しまった。
買い物を忘れていた。
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