竜が乗った女から生まれた男

1/1
前へ
/40ページ
次へ

竜が乗った女から生まれた男

 季は末っ子を意味する。  彼に名はない。富貴の者なら名を与えられないのは異常だが、ただの農民では不思議なことではない。彼は四人兄弟の末っ子であるから、それがわかる言葉を与えれば充分だった。字として与えられた季は彼の名に等しかった。 「あっ、劉兄ィ」  駆け寄ってきた男は肉屋の倅。生業はもとより日々の鍛錬によって作り上げた肉体は見事である。その巨躯の男が兄貴と慕い駆け寄った男の実家は農業を営んでいるが、彼が家業を手伝ったことは皆無に等しく、もっぱら無頼と交わり名を高め、一時期は食客であったこともある。鼻筋が高く、髭を立派に蓄え男を磨くことを怠らない。侠客としてこの近郊で知らぬものはいなかった。 「おう、ちょっと付き合え、呑みに行くぞ」  彼がそういうと肉屋の男は嬉しそうに頷いて「じゃあ皆を呼んでくるよ」と駆け出した。行きつけの酒場に着く頃には、既に満席になっていた。皆が口々に「劉兄ィ」「兄さん」「兄ィ」と彼に声を掛けた。  皆が愉しく呑み、宴が盛り上がっているなか唐突にその甲高い声は響いた。 「季ッ、ここにいたのかい」  呼ばれた男は露骨にいやな顔をして声の主を見た。一瞬、罵詈雑言を浴びせかけたい衝動に駆られたが、無頼として器の小さいところをみせるわけにはいかない。 「昼間っからこんなところにいるのかい。まったくしょうがない男だね。こんな汚い場所で汚い野郎どもと。わかってんのかい、ただでさえアンタは他の兄弟と違って……ねえ」  汚物を見る眼。往来であれば義弟は強く反撃できないことをよく理解している。 「俺がどうしようと関係ないでしょう」  彼にしては丁寧な口調。女は口角を吊り上げる。 「だいたい、なんだい。アンタ、なんで劉なんて名乗ってるんだい。アンタの本当の名前は……ひっ」  瞬間、湧き上がった激情が顔に現れたらしく、女はギョッと醜く顔を歪ませ声を漏らし、そのまま何も言わず立ち去った。周囲の男たちもうんざりした顔をしたが安易に口を挟まなかった。この女が形式上は彼より目上の人間だからだ。早世した兄とも折りが悪かったが、彼が残していった妻とは更に相性が悪かった。彼が家業を手伝わないのは事実だが既に自立しており実家に迷惑をかけてはいない。特に家業を継ぐことができない(末っ子)の彼がどうしようとかまわないはずだ。だからそれは単に彼女の嫌がらせに過ぎなかった。    ある日、彼は呂文という金持ちが彼の住む土地に転居し歓迎の宴会を開かれることを知った。 「おい、皆を集めろ。飲みに行くぞ」  肉屋の倅は嬉しそうに頷いて走り始めた。 「ちょっと待て」  振り返った肉屋の倅に伊達男はニヤと笑いかけた。 「金はいらねえと伝えろ」  豪勢な屋敷だった。遠目からでもそれと分かる門に、蠢く下層民の男達。食い物をたかりにきたのだろうという囁き声が聞こえたが、彼らは気にも留めなかった。なにせ劉の兄貴についてきたのだから。恥じることなどなにもない。 「とまれ」  門番は傍らの立て看板を顎でしゃくった。 《持参金が千銭以下の者は入室するべからず》  伊達男は蔑みを込めて少し笑った。 「なるほどねえ」  一群のなかで唯一文字が読めた伊達男が内容を取り巻きに伝えると彼らは一様に顔を顰める。門番は気にも留めず、そのまま記帳を指差した。持参金を記帳しろということか。  伊達男は門番を軽く押しのけ腹いっぱいに息を吸い込んだ。 「俺ァ、一万銭だ! 中に入ってもいいだろうなあ!」  屋敷住に轟くほどの大声。周囲の視線を肌で感じながら、伊達男と取り巻き立ちは田舎に不相応な門をくぐり、屋敷の中へ入っていった。驚いたのだろう、呂文が慌てて出迎えてきた。瞳は丸く柔らかいが光が鋭い。それなりの場を自分の能力で潜り抜けてきたのだろう。 「貴殿が一万銭……」一瞬、彼らの風貌にたじろいだが、すぐに伊達男に視線を奪われた。伊達男は自分の見立ての正しさに思わず笑いそうになった。人たらしの能力を彼は過小にも過大にも評価していない。予期せぬ客と主人の思わぬ対応に屋敷がざわつく中、青白い顔をした役人風の男が呂文の近くに進み出た。 「お気をつけください。劉季は大ほら吹きで実績のない男です」  シンと会場が静まり返り、取り巻きたちが殺気立って役人の男を睨んだ。青白い顔の男は平然と一団を睨んだ。  へえ、と声に出さず彼は感心した。もし取り巻きがいない状況で言えば阿りだが、この状況ならば気骨だ。それに直言の内容も正しい。口煩いだけのこっぱ役人だと思っていたがどうやら違うらしい。 「……いや、大丈夫だ。蕭何といったな。少し下がっていろ」  幸い呂文は一目で自分に見惚れている。追い出されることはないだろう。彼は呂文に応対しながら役人の男にニヤリと笑いかけた。脇に下がった役人の男はただ注意深くその無頼を見つめていた。    彼は一度見た者を決して忘れない。どんな容貌で、どんなことができて、どんなことができないのか。仕事ぶり、酒席での対応、交友関係。彼には教養はなかったが、それを記憶できる頭脳を持っていた。  世情は安定している。現在の王……正確には皇帝だが学のない彼には何が違うのか理解できなかった……は苛烈だが平等だというし、どこかで大きな乱が起きたとも聞かない。だから彼は自分がこのまま無頼漢で終わると思っていた。  転機が訪れたのは彼が三十の頃。 「オレが?」思わず聞き返した。荒くれ者の自分を低級とはいえ官職につけるだと。伝えにきたのは彼に好感を持つ曹参という男だった。 「もちろんです。ここだけの話ですがね、蕭何どのが推薦してくれたんですよ」  蕭何……ああなるほど、やはり勤勉なだけのバカじゃなかったらしい。呂文の宴会で見たあの男だ。しかも思っていたより自分を買ってくれている。「ついては正式な姓名と字が必要ですから……三日後までにお願いします」事情を知っている曹参は少し期日にゆとりをもたせた。彼は了承の返事をして後日役所に出頭した。  姓は劉。父系社会で正式に母親の姓を名乗る。大嫌いな寝取られ男の父と、そいつと同じ姓を持っていた長男との思い出を後生大事に抱えて生きているあの女の両方に復讐することができる。名は彼がよく呼ばれた(兄ィ)をそのまま使用することにした。字は季、親に与えられた唯一の文字で、ほとんど彼の本名に近かったが正式には字にすぎない。一地方の小さな役所であったが、ただ(末っ子)と呼ばれた男がついに役職についたのである。  後に漢帝国を樹立し、死後は高皇帝と諡され太祖との廟号を得て、後世に漢の高祖として知られることになる。  劉邦の初めの一歩だった。
/40ページ

最初のコメントを投稿しよう!

20人が本棚に入れています
本棚に追加