時は貨幣なり

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時は貨幣なり

 二人の男はすでに二時間近くの[時]と千二百円もの[貨幣]を消費している。 「いいや、そうじゃない」  葉巻を銜えた男がいる。彼は優雅に煙を燻らせた。 「どれだけ[時]を増産したところで市場に出回る[日本時間]が増加する分、その価値が下がるだけなんだよ。生産性にはなんら寄与しない。それどころか却って経済を阻害する。[時]の総量なんて問題じゃなくて[時]によって何が生み出せているかが問題なんだよ」  対面に座る丸めがねをかけた男は一瞬だけ視線を宙に泳がせて葉巻の男に反論した。 「サモスサのことを言っているのかな。もちろん、あの国の政策は文句なく大失敗だったわけだけど、それはインフレ加速率が十五パーセントを超えるような[時]の増産なんてイカレた真似をしたからだし、そもそも生産力が余っているわけでもないのに[時]を増産したところで生産と消費のサイクルが回り始まるわけがない。工場も農場もないのに紙幣だけ刷りまくった古典的失敗国家がそれを証明している。けれど日本の場合、生産能力は足りているのに労働力不足にあえいでいる。だから休眠資材を有効活用するために[時]の増産が必要だと言ってるんですよ」 「なるほど前半には同意しても良い」  葉巻の男は煙を一吹きした。まるで糸のように紫煙がくねり天井へと昇っていく。 「けれど後半には同意できない。貴方は労働力不足の解消を[時]の増産、つまり労働者の稼動年数の増加によって賄おうと思っているわけだけど、日本人の平均労働意欲指向係数が六を切っている現状では効果は怪しい。それにマンパワーについては絶対数が足りていないわけだから稼動年数を増やしても対策にならないだろう。更に言うならば対[日本円]のレートが実質的に固定できているのは政府が調整しているからだ。それを[時]偏重に舵を切れば相対的に[貨幣]の価値が下落し、ひいては[日本時間]の信頼が落ちるだけだ。[時間]の信頼はその場所での滞在に一定程度の魅力が存在するから生まれるのであって、[貨幣]価値の急激な下落に伴う相対的な[時]の価値下落は許容できるものではない」  めがねの男は少し困った顔をした。議論が最初の地点に戻ってしまった。やや遅れて気がついた葉巻の男も気まずそうに視線を揺らめかせた。 「うーん、議論が行き詰ってきましたね。どうでしょう、ここで時間ー貨幣論の原点に戻ってみては」  葉巻の男は笑みを漏らした。自分の提案が悪くないものだという意思表示と判断した対面の男は続けて口を開く。 「教科書に載っている通り、時体の発見と[時]の精製はまさしく革命的な発明でした。多くの人々の寿命を延ばすことが出来たのですから。しかし、この段階では[時]は原体の総量より多く生産することはできなかった。これは従来型の貨幣、特に古来の金貨や銀貨のような硬貨類の状況によく似ている」 「なるほど、だから伝統的な貨幣経済学を応用してモデルケースを考案したわけですな。ある一定範囲においてのみその効果を発揮するのは明らかな差異だといえる」 「さっきも言ってましたけど、[時]はその地域での生存を保障するものですから、その意味では一部地域でしか使用されないローカルな貨幣と極めて近い性質を持っています。勿論、時体変換方法の確立とともに性質も一部変化しましたが」 「金本位制の崩壊、つまり不換紙幣の発行の過程と確かに似ている。政府や中央時間管理所は、ほぼ自由に[時]を生産できるようになったが、従来の貨幣と同じように発行しまくれば良いってわけにもいかない。……そもそも、[時]は貨幣といえるのか? 私にはちょっと疑問だけど」  質問を受けた男はめがねを拭きながら、これから話すべきことを頭の中で整理した。貨幣の定義、役割、現代[時]が担う社会における役割、宮内の議論やフェルド=ルシュパン理論……考えているだけで大学時代に戻ったようで、彼は楽しかった。 「ちょっと良いですかな」  白髪の老人が近づいてきた。 「そもそも[時]は全ての人々に平等に分け与えるべきものではないですかな。資本家の搾取から人民を救い、真に平等な社会を作るのです。せっかく無制限に[時]を生産できるようになったのですから」  丸めがねの男はちらりとテーブルの上に置かれた機械を見た。残り時間はもうかなり少ない。ただでさえ終盤をただのお勉強に使ってしまったのだから、残りは有意義に使うべきだ。対面の男に目配せをすると彼も同意の目線を送ってきた。 「さて、議論を本筋に戻しますか」 「ええ」  まだ使用中のテーブルにどうして第三者がきたりするんだ。店員は一体なにをしているんだ。初めての店だったが失敗だったらしい。丸めがねの男は心の中でそれなりの罵倒語を羅列しつつ言葉を考える。一度立場を逆にしてみようか。 「かつての[貨幣]でやったように[時]を量的に緩和することによって人々の消費を喚起することがどれほど効果的であるか、甚だ疑問ですね」 「ちょっと、私の話を聞いてくださ……」 「いや効果はみこめると思う。なぜなら[貨幣]と[時]は全く性質が違う。[貨幣]はそれ自体に絶対的な価値はない。単体ではただの紙切れや鉱物の塊だ。けれど[時]はそれ自体に絶対的な価値がある。その場所で規定の時間生存できる権利証だからだ」 「それは分かります。ただ……」 「黙れッ!」  突然衝撃音が鳴り響き、続いてしゃがれた老人の声が多量の唾と共に飛び出した。 「ケインズ主義者どもめ! テメエらは経済学に節目が訪れるたびに死んだと言われながらお得意の屁理屈によって哀れにも延命を果たしてきた生ける屍だ。腐臭を放つ汚らわしい口を閉じろ」  二人の男は呆気に取られ数秒停止したが、すぐに状況を理解して立ち上がった。 「何だと! お前らマルクス主義者なんて死ぬどころか埋葬まですまされているくせに性懲りもなく腐った身体で墓から這い上がってきているだけじゃねえか。カビどころか蛆虫の涌いたイデオロギーを恥ずかしげもなく振りかざしやがって」 「口を慎めッ、資本主義の犬めが。いや、違うな。貴様らは犬以下だ。人を本質的抜け殻に退化させて権力によって抑圧し本質を疎外するのだからな」 「誇大妄想狂ひげモジャ口だけおじさんの狂信者が、図に乗るなよ。大体、その疎外論ってのが……」 「黙れタコッ」 「あんだとウスバカ野郎、耄碌した頭で……」  ピッ、とテーブルの装置から音を鳴った。終了の合図。三人はピタリと罵倒を止めにこやかな笑みを浮かべた。そのまま出口へ向かう。途中、さっきまで葉巻を銜えていた男が言う。 「素晴らしいタイミングでした。しかも見事な演技。リピーターが付くのも納得ですね」  老人は照れた笑顔を見せた。 「ありがとうございます。マルクス主義者の役は初めてでしたが、楽しんでいただけて何よりです」  丸めがねの男は心の中で同意した。初めての店で不安だったが、確かに良かった。遊びに夢中になりすぎて忘れていたが、予定時刻ギリギリに〆のヘルプが入ってくれるという話だったのだ。二人は会計を済ませると一言二言交わして、再び赤の他人に戻った。雑踏の中、丸めがねの男は誰にも聞こえなくらいの小声で感慨にふけった。 「ああ、夢みたいだった。こんな非生産的で文字通り[時]と[金]を浪費するだけの遊びに没頭できるなんて。しかも最後には子供のように罵声を浴びせかけあえる。これこそ現代における最高の贅沢。商売の基本は無駄を作り上げること」  男は独り言という無駄を噛み締めながら足早に歩く。[時]と[貨幣]を幼稚な喧嘩に費やせるほど資産家であるからこそ、細かな無駄を潰して生きなければならない。週に一度の娯楽のために彼は今日も動き続ける。車に乗ってエンジンを起動する。報告とニュースの洪水が彼を打ちのめし始める寸前に彼は最後の無駄口を叩いた。 「昔はこんな贅沢が無料でやれたらしい。みんな金持ちで時持ちだったのだろう」
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