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花束と空模様の理由
空はこんなに晴れているのに……。
けれど彼女はメッセージを送った。
〈思い出〉と。
「だって花束が好きなんだもん」
そう言い放つ野々村千夜は山岸由衣の心中を察せられる状況にはない。彼女はコンと音を立ててテーブルに突っ伏した。ゆったりとした甘ったるい口調が他人をイラつかせることを彼女は理解していない。いや、わかっていて敢えてやっているのかもしれない。野々村は複雑なひとだ。涙を浮かべた友人がそれなりの打算と意味のある愛情をもって恋人を選んでいることを山岸は知っていた。珈琲を一口啜って古ぼけた腕時計を覗き込んだ。まだ朝の十時。
「知っているよ、そんなこと。何年の付き合いだと思ってるの」
野々村の瞳は潤んでいるが充血してはいない。しゃくりあげはいるが声はあまり震えていない。ショックだったのは嘘ではないが、それほど落ち込んではいないのだろう。だが、怒りは本物だ。でなければ一晩中付き合ったりしない。ストローを口元に寄せながら、彼女を見る。
「で、どうしたって?」
氷で水増しされたアイスコーヒーはもう溶けだしているのか、やや薄くなっている。
「さっき説明したじゃん! わたしの話なんて聞く価値もないっていうのお……」
どうやら本気で説明しきったつもりでいたらしい。山岸は小さく溜息をついた。
「聴いてたよ。一晩中ずっとだったんだから……聡志、仕事、薄情、別れてやる、雨、向日葵……って言葉だけがずっと繰り返される小間切れの言葉を説明と呼べるならね。アンタが好きなバロウズだってもっとわかりやすい文章を作ってくれるよ」
夜中に突然カラオケに呼び出され、陽が昇るまで要領を得ない泣き言に付き合わされ、どうにかなだめすかし喫茶店に連れ込んだのはいいが、結局ほとんど意味の通った台詞は聴けなかった。もちろん、川上聡志の名は彼女の判断に一定の方向性を与えた。散々相談に乗ってやって、やっと今年中には絶対にやるなんて言っておいて……と思いながらも山岸は拾える単語からおおよそのことは推測して、この店を選び彼にメッセージを送った。あとは賭けだった。
まるで大切に持っていた風船が突然目の前で破裂した子供のように唖然として、野々村は吹き出して笑った。自分が口にしていたものが支離滅裂な文章未満のうわ言とわからないほど理性を失っていたわけではないらしい。なにせ意味の通る文章という意味では、さっきの「花束が好き」がほとんど唯一だったのだから。
「バロウズはいつもカットアップでテキストを作ってたわけじゃないけどね。バロウズの技巧や発想は他のビート……」
途端にご機嫌に喋りだした。こういうところは昔から変わらない。よく言えば純真、悪く言えば子供だ。
「バロウズって『火星の大統領カーター』を書いた人だったよね?」
続けさせてもよかったが、いいかげんビート・ジェネレーションの話は飽き飽きしていた。野々村は眉間にしわを寄せミルクティーを三分の一ほど飲み進めた。どうやら違っていたらしい。
「違うよお。それは栗本薫。『火星の大元帥』のパロディで……そもそも、そっちのバロウズじゃないって。覚えてないの?」
語りたくてうずうずしているのがよくわかる。さっきまで潤んでいた瞳はもう乾きはじめている。もっとも一切読んだことがない山岸としては、説明されたところで頭に入ってくるわけでもなく、目の前の友人がときおり熱心に語る名前を憶えていただけだった。だが、そんなことはどうでもよかった。彼女の衒学欲求に火をつけるのが目的なのだから。
「違う人?」
「ぜんぜん違う人! カットアップを使って小説を書いたのがウィリアム・バロウズで、『火星の大元帥』を書いたのがエドガー・ライス・バロウズ! わたしはどっちも好きだけど共通しているのは苗字と評価されているジャンルがSFに含まれたりするってことくらいでね……」
横目で時計を覗いたが、ほとんど同じ位置を指していた。彼の察しの良さをどれほど過大評価してもここにたどり着くのに一時間はかかるだろう。馴染みとはいえ、さすがに軽食くらいは頼まなければ。そう考えた山岸がちらとカウンターを見るとマスターはただでさえ開いていない目を糸のように細め、すべてを見透かしたように肩をすくめて笑ってくれた。
「SF作家って似たような名前が多いよね。ぱっと思い浮かぶのがロバートだけど、たしか三人はいたよね」
作品は読んだことないけど、と山岸は心の中で付け加えた。そしてこれからの人生で読むこともないだろう。友人から伝え聞くだけで胸やけがしそうなのだから。
「ロバート……だったら、ロバート・A・ハインライン、ロバート・F・ヤング、ロバート・シェクリ、ロバート・J・ソウヤーが有名かな。あっ、作家じゃないけどゼメキスもロバートだったね。『バック・トゥー・ザ・フューチャー』作った人」
「ハインラインは聞き覚えがあるかも」
身を乗り出してきた。いつもとパターンを変えてみるものだ。
「そうだよね! ハインラインはSF御三家って呼ばれていて、世界中で……」
それから野々村はハインラインの素晴らしさについて懇々と語り、やがて日本のSF御三家に飛び火し、そこから中国SFへと移り変わっていった。
深くは理解できない。ただ、彼女の表情は理解できた。
彼女が星新一と日本SF界について語り始めたあたりで山岸は軽食を注文し、SFとドラッグについて主にディックなる男を語りだしたのを機に腕時計を確認した。四十分が経過している。眼の色から考えても、あと三回話題が変わったあたりでちょうどいいはずだ。彼女の語る薀蓄を耳に入れてはいたが頭に入れる気は毛頭ない。ただ、この場で一応の理解ができれば充分なのだから。言葉に比例して彼女に活力が戻ってきた。軽食でブランチを済ませて追加のコーヒーが三杯目に入った。そろそろいいだろう。中途半端に口をはさむより効果的なことをしよう。彼女は野々村がハヤカワ文庫の新刊について一通り話し終えるのを見計らって、煙草に火をつけた。ゆらゆらと紫煙が立ち昇り、飛び出しかけた話題は立ち消え、嫌煙家の野々村はとうぜん友人を睨みつけ、口を開きかけた。
すかさず山岸は言う。
「どう、そろそろ落ち着いた?」
機先を制された野々村は鳩が豆鉄砲を食ったように山岸を見つめた。意図が少しずつわかりだしたのか、ゆっくりと表情を変えてゆき、やがて笑顔になった。安心を相手に伝播させるような笑顔に。
「ありがとう」
山岸は呆れたように笑い返した。いつものパターンだ。始まりはいつもうんざりするのに、この笑顔ですべてを許してしまう。恋人なら惚れた弱みになるのだろうが、友人だとどう表せばいいのだろう。とにかく、と山岸は煙草を灰皿に押し付け消しながら考えた。いつものように、もういちど話させよう。
「じゃあ、とりあえず整理してみようか。最初から順番に話して」
すっかり落ち着きを取り戻したらしい野々村は山岸の眼を見つめてしっかりと頷いた。
「……昨日の夜なんだけどね、聡志と映画を見ていたの」
ある程度想像はついていたが昨日の夜が起点という情報すら初耳だった。話慣れている彼女についてもどうかと思うが、聞きなれている自分もいかがなものか。彼女は野々村に気づかれないように小さく苦笑した。
「最初に『サマータイムマシン・ブルース』を観て、それから『デビルマン』と『ターミネーター2』を観たんだけど……」
「落差がありすぎて頭おかしくなりそう。いろんな意味で」
「やっぱり名作でサンドイッチするならああいうのじゃないとね」
そもそも三本も連続で映画を観ることが山岸には信じられなかったが、話の腰を折るべきではないから黙っていた。
「それで、ひと段落したから『スター・ウォーズ』のこと話してたんだけど」
それだけ映画に浸ったあとによくまだ……と思いはしたが口にはしなかった。二人とも今日が休日だからできたのだろう。
「いろいろ話してたんだけどね……例えばライトセーバーの形状の理由とか所謂イウォーク二部作についてとか。それで『エピソードⅤ』の終盤のレイアとハン・ソロのことを話したときからなんだか様子がおかしくなって」
「『エピソードⅤ』というと……ああ、あれね。知ってるさ、のあたりか」
小説はほとんど読まないが映画はそれなりに好きで、友人に影響でSF映画にもそれなりに目を通している。さすがに細かなエピソードのことはわからないが大筋の話とクライマックスくらいは記憶している。
「そうそう。あの告白のシーンがすごく好きなの! 話が盛り上がったから二人で好きな告白シーンを挙げていってね、それで理想のプロポーズについての話になったの」
ああ、と山岸は呻いた。
「それだ」
「えっ、なに?」
「なんでもないよ。それよりも理想のプロポーズって具体的にはどんなの?」
表情に出さないように自分の腿を抓った。引き金に本人は気づいていないらしく、恍惚に一つまみの頑迷さが振りかけられたような顔をした。
「やっぱり第一条件は花束。これは絶対」
年齢のわりに夢見がちというか、脳のどこかの領域に花畑が広がっていそうな彼女らしいと思わずにはいられなかった。しかし嗤う気になれないのは、それが彼女の妙な計算高さの裏返しなのだろうし、そして彼女の魅力の一つになっているからだろう。山岸は珈琲に砂糖を落とした。
「それも向日葵の花束。わたしの人生の節目には絶対に向日葵が咲いているの。両親が再婚を決意したときも進路を決めたときも由衣に出会ったときも。それに聡志に出会ったこの店だってそうでしょ」
ようやく納得がいった山岸はあやうく膝を叩いて立ち上がりそうになった。向日葵はそういう意味だったのか。
「読み方は向日葵だけどね」
なんでも奥さんの旧姓込みのフルネームらしい。当然、ヒマワリだと思って入店して、偶然出会った川上とそのことで意気投合したのが二人の出会いだった。
「あと脈絡がないのは嫌いって言ったの。唐突になんでもない日にサプライズだッ、って結婚を申し込むなんてぜんぜんロマンチックじゃない。物語だってそうじゃん。終わりと始まりが対比になってるとか、終盤になって序盤のなにげないシーンの意味が分かるとか、そういうのが名作の条件だと思うの。『寄生獣』だって『Steins;Gate』だって、それに漫画版の『パトレイバー』だってダールの「女主人」もそうだったじゃん」
「『シュタゲ』と『パトレイバー』はそうだったと思うけど、『寄生獣』もそうだったっけ」
「そうだよ! もう! 何回も説明したのに……」
適当に話を合わせながら山岸は情報を整理した。それだけ情報がそろっていれば彼が取り乱した理由に見当がついてもよさそうなものだが、どうも自分のことが頭から抜け落ちているようだ。あれだけ一緒に暮らしていれば、相手がその気になっているなんて頭から抜け落ちてしまうものなのかもしれない。
「とにかく、一生に一度のことだから、意味がある日に意味がある場所でやるべきと思うの」
山岸の結論は正しかったらしく続く野々村の言葉に期待の類は見られなかった。
「それ、本当にそう言ったの?」
「うん。……そしたら突然立ち上がって出ていったの。急用ができたとか言ってたけど……今日は記念日なのにそれより重要な用事なんてあるわけないじゃん。きっと仕事なんだよ。わたしなんかより仕事のほうが…………もしかして、わたしのことで怒ってるのかな。けど、仕方ないよ。花束が好きなのはどうしようもないんだから」
おそらく携帯電話の電源は切っているのだろうと山岸は推測した。でなければ山岸に連絡したりしないはず。もっとも、見つかる危険を冒すわけにはいかず、短いメッセージを送った直後に山岸も電源を切ってしまっていた。
しかし、と山岸は思う。それだけでは深夜から出かけるには弱い。その日に間に合わせるなら朝から花屋を巡れば済む話だろう。
「理想のプロポーズに話だけど、ほかに川上になにか言った?」
「うーん……ああ、そうだ。天候のことも話した。おめでたいことなら晴れじゃなきゃだめって。泣けるシーンなら雨が絶対だけど、楽しいシーンには快晴じゃないとって」
「ああ」
彼女の感嘆詞を野々村は聞き逃したらしくなにも言わずにまた川上聡志への幸せな愚痴をよちよちと並べ始めた。点と点がつながった。今日は午後から雨の予報だ。今日が二人の出会った記念日ということを山岸は知っていた……というより教え込まれていた。意味がある日、と指定されたが、付き合い始めた記念日くらいしか思いつかなかったのだろう。今日を逃せば一年後までプロポーズはお預けになる。あれだけ方々に相談して回って決意を決めたのだから、さすがに一年延期するほど意気地なしではなかったらしい。十年来の友人も変わり者だが、彼女と交際している男の方も大概だ。つり合いという意味ではお似合いかもしれない。山岸は相変わらず閑散とした店内を見渡した。マスターが暇そうにコップを磨いている。
向日葵という単語、そして今日が記念日というところから、この店に連れ込み彼にそれをにおわせるようなメッセージを送った。奇しくも最高の場所で野々村を待たせている。あとは太陽が雨雲に隠される前にたどり着けば……いや、どうだろう。そこまで深刻とは思っていなかった山岸は半ば懲らしめのつもりで――程度はどうあれ野々村を泣かせたのだから――敢えてほのめかしで伝えてしまったが、間に合わなければ……。腕時計で確認すると、予想よりも時間が経っていることが分かった。
どうしようか。
責任の一端を感じながら山岸は窓から外を眺めた。もし、少しでも天気が崩れそうなら、トイレに立って彼に連絡を入れたほうがいいかもしれないと考えたからだ。
それは杞憂だった。
山岸は天空で燦然と輝く太陽よりもずっと意味があるものを発見した。それは両手に大きな黄色い束を抱え汗だくになってこの喫茶店めがけて疾走している男の姿だった。入店の鈴が勢いよく鳴った。山岸が指をさすと、野々村は振り返り、悲鳴に近い声を漏らした。たぶん目を丸くしていることだろう。汗だくの川上の顔もそう物語っている。
「あの……え、と」
まごつく野々村を無視して川上はテーブルに近づき、恋人のすぐ近くに跪いた。息切れしているのか言葉に詰まっている。見かねたのかマスターが水の入ったコップを彼に手渡した。静まり返った店内に彼の息遣いと水を飲み下す咽喉の音だけが響く。彼は向日葵の花束を野々村に差し出した。
「思い出だから……と、思って。遅くなってごめん。千夜、ぼくは……」
山岸は彼らから意識をそらした。これから一世一代の歯が浮くような言葉を口にするのだろう。聴かないであげるのが親切というものだ。頭の中を言葉でいっぱいにしてただ視覚だけに集中し、向かい合った二人を横から見つめる。
野々村は驚愕を通り越して唖然に近い顔をしていたが、川上の言葉が進むにつれてそれは薄らぎ、やがて困惑が浮かんだ。川上の台詞が核心に近づくと再び驚きが広がり、ゆっくりと目を見開いた。
「……はい」
一面に広がった笑み。口もとが柔らかく広がり、目じりが下がりまるで閉じているような、相手をもっと見つめようとしているような……やがて川上は彼女の腕を取り、鈍色のリングを薬指にはめた。
この顔を見ていると、山岸はいつも自分を少し嫌いになって、そしてたまらなく好きになる。輝く太陽の光が窓から差し込み、二人を照らした。まるで祝福しているかのように。たしかに、雨模様ではこんな景色は見られなかった。街を走り抜けてきたであろう男の額に反射する光も、幸せそうに煌めく友人の笑顔も。
青く晴れた空にはちゃんとした理由があったのだ。
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