スケッチ:走る

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スケッチ:走る

 陽は完全に落ちた。一面は暗闇だが見上げると星空が広がり満月が輝いている。風は微少で気温は比較的低い。絶好のジョギング日和だ。軽く柔軟してタイマーをスタートする。懐中電灯の弱々しい光が道を照らす。  庭を出てすぐに左折。しばらくはまっすぐ進み、また左折、そしてまた左折。ぐるりと方向転換。リズムよく手足を動かし、けれど身体を跳ねさせないように。脇は締めて呼吸は一定に保つ。身体は軽く、どこも痛まない。しかし、無理は禁物。ペースを保つように気を付けなければ。もう無茶ができる年齢ではないのだから。  車も人影もなくても、田舎道はうるさい。虫たちは大声で鳴き蛙が元気よく合唱を続けている。腕を振り、前を向き、足を上げ、踏み下ろす。呼吸は、吸う量と吐く量が同じくらいになるように。  時計は五分を指している。いいペースだ。信号にさしかかり足止めを食らう。身体が温まってきた。軽く足踏みしていたら青に変わった。左右を確認し車が来ていないことを確認する。深夜の、しかも田舎の国道ではそのくらいの用心が必要だ。リスタート。やや凹凸のあるコンクリートの道を走り続け、左折。両脇にビニールハウスが立ち並ぶ一本道を小学校へ向けて走り続ける。口に飛び込む羽虫もいない季節で、終わり際のハウスからは熟れた苺の匂いがした。蔓と土の匂いと交じり合い口の中で濃厚な甘さになって広がる。突き合って右折し、すぐに左折。汗が出てきた。新築の体育館を横目に走る。時計は十分を過ぎている。決して早いとはいえないペースだが、もう家は全く見えない。  町立図書館のすぐわきに小さな居酒屋がある。地元の漁師や農家、もしくはすぐ近くの役場の職員しか来店しないのだろう。夜も更けた書き入れ時だろうが、もう灯りは消えている。十字路を直進し、折り返し前の最後の直線へ。汗でぬれる。民家よりも稲田のほうが多く、街灯はほとんど存在しない。車もほとんど走っていないが、稀に軽トラックや軽乗用車が走っていく。国道の裏手だから間違いなく地元の人間だろう。男とすれ違った。彼も走っていた。  苦しい……苦しいと自覚できる程度にはまだ余裕がある。懐中電灯と反射タスキが、電燈がほとんど存在しない暗闇の田舎道での生命線だ。走る。ただ、直線を走り続ける。  折り返しに到達した。十五分。  左折。民家が三軒ほどあり、進行方向右側の古びた平屋の入り口で老人がタバコを吸っている。三回に一回は見かける。挨拶は交わさないのはその余裕がないからでもあり、厄介を避けるために田舎者の配慮でもある。すぐに国道に突き当たり、左折。シャッターの降りた店ばかりで光はない。国道沿いに走る。足に痛みはないが二の腕と脇腹肋骨のあたりが痛む。フォームが悪いのだろうか。走る。呼吸はまだ乱れていない。体感のペースも変わらない。走る。ただ、直線に走る。  車が走り去っていった。あれは、確か……いや、違うか。  最初の信号まで戻ってきた。再び足止め。急に止まらないようにぐるぐると歩き、軽く足踏みして呼吸を整える。青。横断。走る。  ラストスパート。  走る。音はない。もう呼吸は考えられない。肩が痛い。走る。胸が重い。走る。走る。家が見えてきた。直進、左折、もう少し。右折、走る。最後の直線。大きく振り、大きく踏み出し、跳ねるように、前は暗闇、景色は過ぎていき、弾けるような呼吸。電光がラインを照らした。  タイマーストップ。  終わった。……だが歩き続ける。止まってはならない。クールダウンに最初の直線を往復しなければならない。これだけはどれほどの距離を走っても絶対にやる。  疲れた。胴体は濡れて、呼吸は乱れて、腕は痛み、身体は重い。けれど、頭はすっきりしている。何も考えずに走るなんて、一種の贅沢なのかもしれない。自由業でなければできないのだろう。  風物詩の蛙の轢死体を避けて折り返す。……そういえば、途中ですれ違った男は今日が初めてではない。顔は見えないが、服装と体形に見覚えがある。年齢は同じくらいな気がするが、彼も昔取った杵柄に夜道を走り健康維持に努めているのだろうか。次にでも声を掛けてみてもいいかもしれない。よく見かけるのだから……考えてみると、追い越していった車も見え覚えがある。毎回同じ車が同じタイミングで……なんて考えられるだろうか。走るたびにあの老人を見かけるのも奇妙だ。こんな時間に庭で煙草を吸うものなのか。連中は何か目的があってそうしている可能性がある。ひそかにおれを監視している…………いや、すれ違った男は、まさにおれの自画像だったという可能性だって……。  庭に戻ってきた。  深呼吸すると、どっと疲れが沸いてきた。いや、深呼吸でようやく完全な疲れを自覚できたのか。額に汗は流れ続けて、両腕には光の粒が輝いている。けれど呼吸はもう乱れていない。軽く柔軟をこなす。さて、趣味はおしまい。お仕事の時間だ。  その前に風呂に入って飯を食おう。
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