スケッチ:ガソリンスタンドでの一幕

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スケッチ:ガソリンスタンドでの一幕

 やはり後悔は先に立たない。いつもなら出発前にメーターのチェックくらいしているのに、今日に限って怠っていた。特に急ぎの用事があるわけでもないし、特別注意力散漫というわけでもなかった。メーターはあと一メモリも残っていない。とても目的地までもちそうにない。  場所も悪い。さびれた田舎町らしく国道沿いには店舗や民家が散見されるが、少し視線を伸ばすと、ほとんど水田とビニールハウスしかないのが見て取れる。搭載のナビには聞いたことのない街の名前が表示されている。北上するのにいつもは通らない道をとった気まぐれさえ最悪の偶然だった。とにかくガソリンスタンドを探さなければ。  いまが真昼でなかったら……そう思うと冷や汗が出る。田舎町のガソリンスタンドはかなり早い時間に店じまいしてしまうと聞いたことがある。いや、逆に言えば車社会の田舎町にガソリンスタンドがない、ということもありえないだろう。この近辺に必ずあるはずだ……コンビニと道の駅らしいものが見えた。繁華とはとてもいえないがここが町の中心地らしい。もう少し進んで見つからないのなら路肩に止めて検索を……。  見つけた。  高く掲げられた看板にはJAと赤文字で記してある。農協が経営しているのか。いつも使っている大手のスタンドとは違いこじんまりとしていて活気もない。相場は贔屓のスタンドとほとんど同じだ。入場して給油機に横付けする。セルフらしく、精算機がポイントカードを要求してきたが当然持っているはずもなく現金払いを選択し、給油量も帰りと不慮の事態を考慮し満タンを選択する。代金はほとんど変わらないにしてもポイント分損をするが仕方ないだろう。静電気除去シートを触り、給油キャップを外してノズルを差し込む。いびきのような音を立てて給油が始まる。気化した油の匂いが微かに漂う。  ようやく人心地ついた。冬の始まりで本格的ではないにしても肌寒さがある。澄んだ冷たい匂いと給油口の臭いが独特の香りになって、鼻孔をくすぐる。ひんやりした風が控えめに吹いて、落ちてた空き缶を転がした。  不意に人影が現れ、小気味よく転がっていた空き缶を拾い上げた。若い男だ。羽織っているジャケットから考えて店員で間違いないだろう。薄い茶髪をかなり長く垂らして、鼻筋はやや高く唇は薄い。瞳は細く切れ長で好みにもよるだろうが充分な外見だ。少なくともわたしに比べれば格段に端正だ。彼は拾った空き缶を事務所近くのごみ箱に投げ捨て、入り口にもたれかかって無表情に空を眺めている。  どうしたのだろう。セルフスタンドは特に経費削減のためにアルバイトが少なく、給油許可の目視確認のような不可欠な業務に専従していて、あまり顔を見せたりしないと聞いていたのだが。彼は退屈そうに事務所の外に立っている。  あいつは殺人犯だ。  隣県の繁華街で金銭トラブルを起こし、進退窮まった彼は人通りの少ない深夜に貸主の男を刺殺する。凶器や血が付いた衣服を上手く処理した彼は金を持って、以前から連絡を取っていた友人の住むこの田舎町へ駆け込み、彼の紹介でこの職にありつく。もちろん事情は全て隠しているが、もし少しでも危うい気配があればさらに遠くへ逃げれるよう準備は怠っていない。そして、この辺りでは珍しい県外、しかも自分が事件を起こした県のナンバープレートを目にした彼は業務の店内清掃にかこつけて、何気なくその男を監視している。彼の直感は半ば正しい。なにを隠そうわたしは県警刑事部の……。  がこん、とノズルのトリガーが固まった。給油が終わったのだ。軽く頭を振ると楽しかった妄想の種は雲散霧消した。おそらく五分もたたなかっただろうが、いい暇つぶしができた。ノズルを戻しキャップを嵌める。精算を済ませて運転席へ。さっきまでは晴れていたがどんよりした重い雲が空を覆っている。エンジンをかける。誰かが見ている気がする。例の彼だろうか。最後に見納め……。  笑顔が、真横にいた。口角が大きく上がり、端のほうがぴくぴくと痙攣している。大き開いているはずなのに前歯だけが薄い唇の間から顔をのぞかせる。何かを必死に見極めようとしているような、丸々と、大きく開かれた瞳。さっきの店員とわかった瞬間、心臓が一瞬だけ止まった気がした。わたしの驚いた顔がみえたのだろう、彼はやや深く頭を下げて、すぐに立ち去ってしまった。スタンドを出ると小雨が降り始めた。ワイパーと前照灯を一段作動させ、すんなりと右折で発信できた。  あの笑顔は何だったのだろう。何か意味があったような気がしてならない。……彼も退屈しのぎに同じような妄想をしていたのかもしれない。この場合、わたしが殺人犯で逃亡者というわけだ。わたしの車に近づいたのは、それが彼の業務に含まれていたからで、妙な笑い方をしてしまったのは、直前の妄想がふと頭をよぎってしまったからだろう。不器用な男なのだ……いや、そうだろうか。もっと意味深な気がする。何かを隠しているような。もしかしたら彼は本当に犯罪者だったのではないだろうか。あの笑顔は、どこか、威嚇の意思が……。  バックミラーには、もう彼の姿はなかった。  エネルギーを満タンに搭載した車は微かな唸り声をあげて国道五〇一号線を北に走っている。目的地まであと三十分といったところか。本降りになる前に着けばいいが。
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