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「その男は貧しい村の貧乏な農家の長男として生まれた。痩せた土地だった。耕しても、耕しても腹いっぱい食える程に採れたことはなかった。それでも家族力合わせてなんとか暮らしていた」
客は静かに耳を傾ける。
「だが、男が十五になった時だった。その年は雨が降らず日照り続きで全く育たなかった。蓄えていた食料が無くなると食べ物を求め山に入り、山菜や茸を探したが微々たるものでしかない。木の根も齧ったが腹の足しにもなりゃしねぇ。そうこうするうちに子に自分の飯も与えていた親が死に、飢えと病から弟達も動けなくなった」
船頭の声は僅かに震えていた。
「痩せて骨だけになっていくあいつらを見てられなくなった。だから男は、地主の家に忍び込むことにした。地主の蔵には年貢として納める米が蓄えてあることを知っていたからだ。忍び込んでちょいと盗むことは上手く行った。急いで戻り、柔らかく煮た米を食わせようと匙を近づけた。……だが遅かった。もう粥を飲み込む力さえなかったんだ。口の端からだらだらと溢しながらそのまま逝っちまった」
ぎぃ……ぎぃ……
渡し船は進んでいく。
「それでその男はどうしたんですか」
おずおずと客が問い掛けると船頭は肩を竦めおどけてみせた。
「男の盗みはすぐにバレて、村中の住民に追われた。捕まった男は見せしめの為に殺されちまったのさ。そうして、閻魔様の所へ向かう途中で先代の船頭に後釜をやらないかと声を掛けられた。それで今は渡し船の船頭をやっているってわけだ」
ははっ、船頭の嗤い声だけが虚しく響いた。
「家族も救えず、盗みまでした俺はどうせ地獄に行くと思っていたからな。責め苦を受けるよりいいと引き受けた。先代の話では五百年船頭を勤め上げると、地獄へ行くのは免除されてまた人として転生できるという話だったしな」
「あなたが船頭になったのはそれが理由ですか?」
「それも理由だが、もう一つある。こうして、ここにいると先に行っちまった家族とまた会えるのさ」
「それはどういう……」
「善人はすぐに生まれ変わり、また人生を始める。そうして一生を終えるとこの場所に戻って来る。……俺達船頭には人の魂の過去の姿が分かるんだ。だからここで、また家族に会えるのを待っているのさ。それが皺くちゃの爺さんや婆さんの姿で会えるとたまらなく嬉しいんだ。……ほんの一瞬でもな」
家族の事を思い出しているのかその表情は穏やかだった。船頭は表情を引き締めると客に問いかけた。
「何か罪を犯した人間は地獄で何千、何万年の刑を受ける。それよりは、ここで船頭をしていた方がいいと思うが人それぞれさ。もしかしたら天国にすんなりといくかもしれないしな。さて、もう直き岸に着く。ここまで話を聞いてお前さんはどうする?」
客が振り返ると、薄い白い線が視界の端を捕らえた。もうこの船旅もあと僅かのようだ。船頭は櫂を漕ぎながら答えを待つ。客は俯きしばし考え込んでいたが顔を上げる。
「僕は……」
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