一人乗り

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 僕は海岸線の道沿いで、お父さんに買ってもらったレースバイクのペダルを漕いでいた。  下り坂でもないのに、ハンドル左側のレバーを手前に押してギアを重くしてみる。カチン、カチンと切り替わる音が心地いい。ペダルの回転数を一定にして走りながら、ギアチェンジを繰り返して音と太ももに掛かる重さの違いを楽しんでいた。  もうかれこれ10分以上は車とすれ違っていない。まるで世界を支配したような気になって、目を瞑ってしまいたくなるほどの自由を感じていた。ところが秋の潮風が横槍を入れる。制服のネクタイをからかうようにはためかせる。取ってしまえば問題ないのだけれど、わざわざ止まるのも面倒に思うし、なによりも僕はネクタイの結び方がわからなかった。  横目で見える夕日は水平線に浮かんでいた。沈むのは時間の問題で、切なくなるから見ていたくはない。だけど目を背けようと思うほど気になってしまう。そんな矛盾に釣られて夕日を見てしまうと、ロウソクのように儚く灯る真ん中に若菜を見つけた。  若菜は砂浜を一人で歩いている。海や夕日なんて気にもせず、足元の波打ち際を見ながら歩き続けていた。頭を垂れるから長い髪が顔にかかり、その度に耳にかけ直すのを繰り返している。  もうひと月あまりになるだろうか。夕暮れ間近になると、きまって若菜はそこへ来る。風が強かろうが、雨が降ろうが欠かさずに訪れていた。そして漁業や海運を守るという触れ込みの神社へ通うのだった。  僕はそれが無意味だと思って密かに腹を立てていた。そんな感情を逆撫でるように潮風がネクタイを弄ぶ。嘘つけって、強がるなって笑われている気がした。近頃の若菜は日を追うごとにキレイになっていた。何が変化を与えたのかわからない。それが自分ではないことはわかっている。僕の手に余るほどの美しさは、手に届かないことを暗示しているかのようで怖かった。若菜がどこかへ消えてしまわないように、神社へ向かってペダルを力いっぱい漕いだ。  砂浜と道路を区切るガードレールに自転車をくくりつけた。コンクリートの階段を飛び降りて、砂浜に着地する。ローファーに砂が入り込むのを気にしながら、真っ直ぐに沖へ向かってのびるコンクリートで塗り固められた、風情のない堤防を掛け上がる。その先には砂地に不釣り合いな岩肌で覆われた小さな島がある。刈り上げた少年の頭のような形をしていて、てっぺんまで続いた石段を登ると神社があった。  神社と言っても神主が常駐しているわけでもなく、高校の手提げカバンほどの石が、依り代として祀られた小さな祠と鳥居が設置してあるだけだった。100年前にこの土地に移り住んだ漁師たちが建てたものらしく、鳥居の朱色は色褪せて、所々木が剥き出しになっていた。  すでに到着していた若菜が祠に向かって手を合わせている。僕は邪魔をしない程度に砂利を踏み鳴らして、着いたことを知らせた。岩に腰掛けて、微動だにしない若菜の後ろ姿を見つめる。そよ風でふくらむカーテンような若菜の髪の隙間から、うなじか見え隠れする。黒髪とは対照的な白肌の首筋に触れてみたいと思う自分を不謹慎だと責めた。若菜は先月父を亡くしたばかりだった。 若菜の父は今年待望の息子が生まれて、まき網漁業の事業拡大に励んで、三隻目の船を購入したばかりだった。その船が出航してから従業員共々戻ってこなかった。船の残骸も遺体も上がってはいない。  若菜は父が帰らなくなってからの当初は、砂浜に立ち尽くして水平線を眺め続けていた。その捜索が打ち切りなってから砂浜を歩くようになり、波打ち際ばかりに視線を落として何かを探していた。そんな行動の変化と心情の変化が不可解であっても理由を聞くことは怖くって出来なかった。そして若菜は突然美しくなった。不意に振り向かれて目と目が合うと、ドキドキするというよりも、心臓を掴まれたようにドキッとさせられた。息が詰まって溺れたように苦しくて、不安ばかりが込み上げてきた。  若菜と出会ったのは高校一年生だった。クラスが一緒になって、席は一番後ろの端と端。若菜の横顔を見るにはクラスメイトの頭が4つもあって、背中を伸ばすふりして、のけ反らなければならなかった。  初めて会話を交わしたのは、入学してから3ヵ月経った7月だった。部活へ行こうと、別棟にある部室へ急いでいた。授業中に持ち込み禁止のスマホが鳴ってバレて担任から説教を受けていたのだ。すでに部活は始まっている。誰もいないだろうとたかをくくっていた中で、若菜と鉢合わせた。若菜はスクール水着で別棟の廊下を歩いていた。「え!」と驚いたのは僕のほうで、「あっ」としくじった顔をしたのは若菜だった。水泳部の更衣室はプールに併設されている。別棟にいる理由がなかった。この場に不自然なのは若菜の方だった。そんな疑問を察したのだろう、「プールのトイレが壊れたの」と若菜が恥ずかしそうに言った。そして逃げるように背中を向けてトイレへ走った。しかし扉の手前で立ち止まると振り返った。「誰にも言ったらダメだよ」咎めるように愛らしく眉間にシワを寄せた。 「言わないよ」 「信じるからね」  無邪気に微笑んだ若菜は扉へ消えていった。あの頃の若菜の首筋は全身と同じように日に焼けた褐色だった。  僕たちは少しずつ会話を増やし、LINEだって交換した。テストがあればお互いの勉強具合を探りあったり、クラスメイトの男女の仲を二人で取り持ったりしていた。何か用事があれば必ず連絡を取り合う仲になっていた。  二年生になるとクラスは離ればなれになってしまった。その上、コの字型の校舎でクラスは中庭を挟んで離れてもいた。部活もお互いに置かれた状況が変わっていった。僕は100人近くの部員を抱えるサッカー部でAチームに上がった。練習試合でも途中出場の機会を与えられ始めていた。  若菜に至ってはすでに水泳部でメンバーに選ばれ、自由形での新人戦に出場していた。我慢に我慢を重ねてようやく芽吹き始めた部活に夢中で、二人で会う機会は一切なくなった。だからそこ、ふたりでのLINEのやり取りは増えていった。水泳部の顧問が飛び込みをミスった話やサッカー部の部長が練習着のズボンを逆に履いていて、トイレから戻ってきたら、しれっと戻していた。そんな小さな話をいちいち報告しあっていた。  三年生になると僕はレギュラーになって、部長に選ばれた。若菜も部長になって、国体の選手にも選ばれた。クラスも同じになって、部長という責任ある立場が共通したことで苦悩を支え合った。  その時はすでに告白することを決めていた。問題はいつするかで、若菜の答えには自信があった。だから焦る必要もないし、部活に専念する期間だと若菜も割りきっていると思っていた。悩んだ末に告白は若菜の誕生日にしようと決めた。その先の結婚まで考えたりもしていた。そして若菜からLINEのメッセージが届いた。  インターハイ出場を決め、その本大会を間近に控えた7月19日だとはっきり覚えている。もう寝ようと思ってベッドに入ったところで22時を過ぎていた。こんな時間に若菜から連絡が来るなんて今までにないことだった。ストイックな若菜は21時にはどんなに目が冴えていたって布団に潜っている時間だからだ。修学旅行でも同室の女子が話している中でも眠っていたと言っていた。何かあったのかと不安になって、LINEを開いた。(明日は寛貴の誕生日だね。せっかくだから祝ってあげてもいいぞ♪)  若菜らしい誘いだった。僕は嬉しくなって飛び起きて、蛍光灯からぶら下がる紐を何度もパンチした。だけど、すぐに冷静になって返信を打ち始めた。(ごめん。明日は部活の連中が祝ってくれるんだ。インターハイに向けての決起集会なんだ)  サッカー部の三年生は39人いて、その内の10人が7月生まれだった。夏休みなのに休みが1日しかなくって、とにかく部活以外で仲間と集まる理由が欲しかった。それだけ仲が良かったし、インターハイ出場は10年ぶりの快挙だった。それにこの時は部活を優先することが、仕方がないことだと思っていた。怪我でインターハイに出場出来ずに引退を決めていた若菜の分まで活躍するんだと背負っているつもりでいた。もしもあの時、仲間との集まりの後でも若菜と過ごしていたら、今がこんなに不安になるようなことはなかったのかもしれない。  祠の前で願い続けていた若菜の電話が鳴った。何のことはない電話のベルの着信音が妙に切迫した緊張感を増長していた。 「どうしたの…落ち着いて…もっとゆっくりしゃべってくれないとわからないよ…うん…うん…わかった。今からそっちに行くからお母さんはベッドで寝てて…眠れなくてもいいから横になってて…海星の様子は私が見に行くから、お母さんは自分の身体を心配してね」  電話を終えた若菜はスマホを握りしめたまま、しばらく動かなかった。泣いているのだろうか。若菜の後ろ姿をからは表情が読み取れない。こんな場面だからこそ声を掛けて支えたいのだけれど、自分には到底なし得ない絵空事だと足踏みした。なぜなら僕はお母さんが入院しているなんて一切聞いていなかった。弟が生まれたことを喜んでいた姿しか見ていなかった。報告するまでもない程度の入院なのだろうか・・・いや、どんなくだらないことだって報告し合っていた仲なのだからありえない。むしろ言えないほどの病気なのかもしれない。しかし振り向いた若菜の表情は平静だった。覚悟が決まったような強さを眼光に感じた。それが言い知れない不安を煽る。 「ごめん、私帰るね」 「海星は大丈夫なの?」 「大丈夫、と言っても相変わらず保育器から出れそうにないけど」 「保育器に入ってたんだ・・・」 「うん」 「お母さんは?」 「高齢出産だし、元々体弱いし、どうかな」 「送っていくよ」 「ひとりで大丈夫だよ」 「無理するなよ」 「本当に大丈夫。もう大丈夫。寛貴は自分の心配しなよ。大学落ちるぞ」 「若菜だって同じだろ」 「私はいいんだよ。もういいの」 若菜はふっと笑って石段を弾むように飛び降りた。 体操選手みたいに両手を広げて着地して、得意気な顔して僕を見た。わざとふざけて重くなった空気を消し去ろうとしている。そんなノリには付き合えないと取り乱す自分が場違いに感じるほど若菜は冷静だった。 「やっぱり送っていくよ」 「会社に寄るつもりだからいいよ」 「病院は?」 「お父さんの船が見つかったの。船体の一部だけだけど」 「お父さんは?」 「お母さんの話じゃわからなかったけど、多分、まぁそういう事なんだと思う」 「病院行ったほうがいいんじゃない」 「そういう訳にはいかないよ」 「どうして」 「従業員の方の対応があるから」 「そんなの誰かに任せなよ。お母さんの側にいてあげなよ」 「亡くなったのはお父さんだけじゃないから」  若菜は諭すように微笑んだ。僕は心配しているんだってことを伝えたくて必死だったけど、それがいかに幼稚だったかを思い知らされた。そして若菜がゆったりと歩み寄ってきた。 「だらしないなぁ」そう言って真正面に立って、風に弄ばれて乱れたネクタイをキュっと引き締めた。触れられているのはネクタイなのに、温もりを感じる気がする。僕の視線は若菜の瞳へ、鼻筋へ、唇へ引き寄せられる。腕を回すだけで抱き締められる距離までようやく近づけたのに、自分の体を動かせない。阻んでいるのは物理的な問題じゃない。潮風が若菜を通して穏やかに顔に触れた。うんざりするほど嗅ぎ慣れた磯の匂いはしなかった。鼻腔から入り込んだ香りは、若菜のうなじに触れているような錯覚を陥るような体温を感じさせた。僕の心臓は握りしめられたように苦しかった。 「バイバイ」  若菜の軽やかな別れの挨拶が、今日まであやふやに育んできた恋愛をリセットされた気がした。このまま行かせたら二度と手の届かない場所へ行ってしまううと感じていた。 「やっぱり送っていくよ」と僕は叫んだ。 「ありがとう。でもあの自転車じゃ、無理だよ」  若菜は笑っていなかった。  堤防手前に停めたレースバイクには、カゴもなければ荷台もない。本格レース使用のタイヤは親指ほど細くて、小石一つでパンクしてしまう。返す言葉もなく堤防を走る若菜を見送る他になかった。すると一台の軽トラが到着した。若菜は驚きながら「けんちゃん」と運転席の男を呼んだ。  男は真っ赤に日焼けした肌に、仁王像のように隆起した腕で手招きをしている。30歳くらいの丸顔で、人の優しそうな男だった。軽トラのドアには中村水産株式会社と書かれている。会社の従業員なのだろう。若菜は躊躇なく助手席に乗り込んだ。シートベルトを掛けながら、楽しそうに男に話し掛けている。若菜はお父さんの会社の車に乗っただけだと、自分自身に言い聞かせた。だけど「けんちゃん」と呼んだ若菜の華やかな声が頭から離れない。石段を掛け下りて、堤防を走った。このまま行かせてはいけない。必死だった。すると軽トラが走り出した。若菜は前を向いている。男が視線をこちらに向けた。睨み付けているようにも、勝ち誇ったようにも見えた。僕はお父さんに買ってもらったレースバイクを蹴り倒した。 「神様なら若菜の願いを叶えてみせろよ。一人くらい生きて帰らせろよ」  僕の願いは潮風にかき消されてしまった。                 終わり
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