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3
肉筆の手紙などめっきり書かなくなってしまったというのに、恋人の母親に宛てて手紙を書くという作業は、日頃の仕事よりもはるかに神経をすり減らすものがあった。
恋人の母親とはいっても、裕司と大して歳も変わらぬ見ず知らずの女性である。どれほど言葉を尽くしても悪く取られる気がしたし、それが真っ当な感性だと自分でも思えてしまって頭が痛かった。
出来はともかく用件は伝わるだろうと思われるものを書き上げて、憔悴して仕事部屋を出ると、台所に立っていた良の丸い目と目が合った。
「……どうした」
良が何も言わないので裕司の方から訊いてみると、良は一拍空けて口を開いた。
「徹夜で仕事したみたいな顔してるよ」
「ああ……うん、だろうな」
「コーヒー飲む?」
うん、と答えると、良は慣れた手付きでポットに水を注ぐ。疲れていると察して、労る態度を見せてくれる人間が家の中にいることを有り難いと思える程度には一人暮らしが長かったし、ましてそれが恋人なのだと思うと胸に沁みた。
「……なに」
ほとんど何も考えずに、シンクの前に立つ良を後ろから抱き締めていて、良のその声を聞いてから自分が彼にひどく甘えていることを自覚した。
「いや……お前がいてくれて嬉しくて……」
取り繕う余地もないと思って正直にそう言うと、良は驚くでも照れるでもなく、変わらぬ静かな声で言った。
「俺のせいで疲れてるんだと思ったんだけど、違うの?」
「え……?」
「俺んちに出す手紙書いてるんだと思ってた。急ぎの仕事?」
聡いなと思いながら、裕司は良の肩に頭をもたせかける。格好のつかない大人だということを隠しても、もう無駄だと知っていた。
「手紙書いてたよ……頭の普段使わないとこ使ってヘトヘトだ」
「俺のせいで疲れたのに俺に甘えるんだね」
良の声が少し笑っていて、つられるように裕司も笑った。
「お前のせいじゃないだろ。お前が関係してることとお前に責任があることは別だ」
「なんだ、見た目より元気じゃん」
軽口が嬉しかった。裕司が良に甘いことを、良はずいぶん理解しつつある。だから裕司を怖がらずに、言いたいことを言ってくれるようになった。
言い方を変えれば舐められているわけだが、人に対して臆病になりがちな彼を知っているから、それぐらいでちょうどいいと思った。そもそも裕司は彼に敬われるような人間ではない。
「……手紙読むか?」
訊いてみると、良の黒い目がちらりと裕司を振り返った。
「母さん宛の? 読んどいた方がいい?」
「いや……気になるかと思って」
良は口を開きかけて、首を傾けた。何か考えているんだな、と思って裕司は待つ。腕の中の身体の温かさだけで、いくらでも時を過ごせる気がした。
よく話すようになったといっても、良はおそらく、考えていることの半分も口に出してはいないのではないかと思うことがあった。彼は自分の中にあるものを、言葉にして話すことがあまり得意ではない。
時にわかりにくく、独特な物の言い方をする彼が、裕司は嫌いではなかった。不得意ながらに伝えようとしてくれていることが嬉しかったし、彼が彼にとってぴったりと当てはまる言葉を見つけられたときは嬉しくすらあった。
「……その、うまく言えないんだけど」
「おう」
「興味ない……って言ったら何か違うなって思うんだけど……。……あんたが俺の母さんに言いたいことって、俺に言いたいこととは違うんじゃないかって気がするから、その、俺が読んでも仕方ないんじゃないかなって……。……ごめん、やっぱうまく言えない……」
自分でも腑に落ちない様子の良に少し笑って、裕司は良の腹の辺りを抱き直した。
「いいよ。ようは読まなくても平気なんだろ?」
そう言うと良は頷いた。
良の不器用で嘘のない言葉から彼の心を読み解くことを、いつの間にか裕司は楽しみつつあった。裕司がちゃんと向かい合えば、存外良は逃げることなくその胸の内を見せてくれる。そのことに時間を費やすことは有意義で、不思議と暖かな心地がした。
「いずれ俺とお前とお前の母親とで話す機会があったときに、話が食い違う可能性もないじゃないが……」
「……俺とあんたとで?」
「そう」
良は瞳の色を深くして、どこでもないところを眺めながら、静かな声で言った。
「……もしそうなっても、あんたはちゃんと説明してくれるでしょ。俺、たぶんあんたには直接言ってもらった方がわかるし。……それより、あの人とちゃんと話し合うなんてできたことないから、そっちの方が気になるかな」
その瞳がどこを見ているのか、静かな静かな声の奥にどんな感情が込められているのか、それは裕司には見えなくて、少しの間台所には湯の沸きつつある音だけが響いた。
「……誰もわからないことは、やってみるしかないだろ」
もっと大人らしいことが言えたらいいのに、と思いながら掛けた言葉に、良は薄く微笑んでくれた。
「うん……俺もそれでいいと思う」
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