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13
仕事の山を越えてゆっくりと風呂に入ることができて、その風呂の中で今朝は髭を剃るのをすっかり忘れていたことに気が付いた。良がそれに気付いていないとは思えなくて、指摘されなかったということは気を遣われたのだろう、と思ってつい苦笑いが出た。
昼食も夕食も良が準備してくれて、裕司は今日家事らしい家事をほとんどしていなかった。良に甘え切っている自分がおかしくて、こんなにしてくれているのに裕司に借りを感じているらしい良を思うと切なくなる。
──肩書きがないっていうのはつらいよな。
学生だとか、会社員だとか、社会に属する何らかの立場を持たない状態は、きっとそれだけで不安を喚起するのだろう。良が自分からあれこれと雑事を片付けてくれるのも、そんな不安に追い立てられているせいなのかもしれなかった。そう考えると、早くどうにかしてやりたいと思う。けれど同時に、急かすようなことは言いたくなくて、ジレンマを覚えた。
良の人生だから裕司が何でもしてやるわけにはいかないし、そんなことは不可能だと頭ではわかっていても、いつもどこかで歯痒いものがあった。
普通なら、普通なら実の親があれこれと口を出したり、見守ったり、援助したり、ときには衝突しながら、少しずつ社会の中で自分の立ち位置を見出して、挑戦と失敗を繰り返して成長していく時期なのだ、と、裕司は自分に言い聞かせるような思いで考える。自分が彼の年の頃には、田舎から出てきたばかりの学生で、都会の喧騒に疲れながらも、新しい世界の刺激に毎日が忙しかった。嬉しいことも楽しいこともつらいこともあって、色んな未知に向き合っていたと思う。
それでも学生という肩書きと証明があって、いつでも帰ることのできる実家があり、なんだかんだと気にかけてくれる親がいたことは、自立の準備段階だった裕司を充分に守っていてくれていたのだと、今になって理解する。そのいずれも持たない良が時折見せる、心もとない表情は、裕司の理解し得ない孤独がそうさせているのだと思えてならなかった。
──俺がいくら味方でも、不安じゃないはずがないよなぁ……。
まだ出会って半年も経っていない。家族と等しく大切な存在だと思っているし、良も信頼してくれていると思うけれど、自分が良の不足の何もかもを埋められると思えるほどには傲慢になれなかった。
同じ家の中にいるのに、良の顔を見て確かめたいという気持ちが湧いてきて風呂を出ると、家の中はまるで誰もいないように静かだった。
あんまりにも静かなので、あいつはまたうたた寝でもしているのかと思いながら居間を見れば、良はテーブルに肘をついてタブレットを触っていた。
その横顔に真摯な色を感じて、裕司は声を掛けることをためらった。なんとなく邪魔をするのが申し訳ないような空気だった。
裕司が黙っているうちに、良の方が裕司に気付いて言った。
「もう歯磨いた?」
「え? いや……」
「ココアの粉残ってたけど作ろうか?」
どれだけ世話を焼いてくれるのだろう、とおかしくて、裕司は笑う。
「お前が飲みたいなら俺がやるよ」
せっかく立ってるし、と言うと、良は一瞬遠慮しかけてから、はにかんだ声で、ありがと、と言った。
この家で二人で過ごす時間が経つにつれて、良の態度の変化は思い返せば顕著だった。
はじめはただただ警戒されて、少しずつ気を許してくれて、笑顔を見せてくれるようになって嬉しかった。疲れた心と身体をうまく休ませることができない彼の不安定さに裕司も戸惑いながら、向き合って話をしたり聞いたりして、手探りしながら距離を詰めた。そうしているうちに二人で過ごすことがとても心地よくなって、支えてやりたくて喜ばせてやりたくて、募る愛しさを持て余すほどになった頃には良もまっすぐに裕司を見て求めてくれるようになって、今の関係に至ったのだ。
そして今も、良は変化し続けていると思う。迷ったり悩んだりしているのが伝わってくると可哀想にも思えたが、裕司から離れようとする気配のないことはとても有り難かった。
──捨てられるとしたら俺だよな。
そんなことを、当然のように裕司は考える。良は若くて、何もかもがこれからで、価値観も世界観もきっと変わっていくだろう。その中で裕司を必要としなくなる日が来ても、それは決して責められるものではないと思った。
そしてもしそうなっても、それまでは目一杯愛してやりたいと、強がりでも何でもなくそう思う。彼はもっと、今以上に、これまで足りなかった分も愛されてしかるべきだった。
「ほら、熱いから気を付けろよ」
出来上がったココアのカップを良の前に置いてやると、良は甘い香りに目を細めた。
「ありがと。……ね、今日はもう仕事終わったんだよね」
「あー、今日はもうしねえよ。目と首と肩が死ぬ」
「後で揉んであげようか?」
「まじか? 普通に助かるな」
気ばかり遣わせている、と思いつつ、親切を無下にされるのは良も嫌だろうと思って笑って返した。
良も柔らかく笑って、ココアにゆっくり口をつける。そしていくらか沈黙してから、少しばかり緊張を感じさせる声で言った。
「……ねえ、あんたはさ、俺が働くのと、学校に行くの、どっちが嬉しい?」
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