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 良が来る前の裕司の生活は、自宅で仕事をしながら気分次第でカフェに行ったり飲みに行ったり、遠出はしないものの家に引きこもることもあまりなかった。  日頃デスクワークをしているから、あまり集中しすぎるとすぐ身体が凝り固まってしまう。だから週に2日はジムにも通うようにしていた。  しかし出会った当初の良は何かと不安定で、一人で留守番させておくのは心配で、ほとんど常に一緒にいた。今から振り返るとよくうっとうしがられなかったものだと思うが、あの頃の良は孤独と心細さに苛まれていて、見て触れられる距離に裕司がいることをよすがにしていたのだろうと思う。  しかし新しい暮らしに慣れ、裕司との関係にも恋人という名前がついて、触れて確かめなくとも拠り所になるものが彼の中に生まれたのか、近頃の良は物理的な距離に執着しなくなってきた。それが普通で健全なことだとわかっていても、なんとなく親離れされてしまったような寂しさがよぎることがあって、彼に対する己の感情の複雑さに裕司は自嘲する瞬間がある。  裕司は早い時期から自分にとっての良の存在の大きさを自覚していたけれど、彼に対する感情を恋愛のそれだと認識するまでには時間がかかった。良への想いは自分が経験してきた恋とはだいぶ違っていて、飢えるような欲望も震えるような高揚も伴わなかった。それでも彼の心も身体も欲しかったし、彼が泣くときは一番に自分が慰めたかった。彼が笑うと裕司もとても嬉しくて、心にも身体にも寄り添っていたかった。  その感情に名前を見つける前から彼のことが好きで、愛していると思っていて、そんな自分の気持ちと彼の気持ちの折り合う場所が、互いに恋人という名前をつけることだった。  だから、とてもおかしな順序をたどって今の関係に行き着いたことを考えると、裕司はつい笑ってしまう。はじめに一緒に暮らし始めて、抱き合って眠るようになって、想いを伝えて慰めて温もりを分けるために口づけるようになった。そんなことが当たり前になってから、やっと恋人同士になったのだ。  そして今は、まるで癒着するようだったつきっきりの生活が、二人で暮らす部屋で交わりながらも別個の人間として分離しつつあった。  住み慣れたマンションのエントランスを抜けてエレベーターに乗り、自宅の玄関を開けると、かつてはしんとして薄暗く何の気配もしなかった部屋の中から生活の温もりが漂ってくる。それは掃除機や洗濯機の音だったり、テレビの声だったり、料理の匂いだったりした。  ずっと一人で暮らしていた部屋に愛しい者がいる証なのだから素直に喜べばいいものを、裕司はそれが少し寂しく思えることがある。自分がいなくとも彼は人間らしく穏やかな一日を過ごすことができるのだと、そんなことを思う自分があって、己の幼稚さに笑うほかなかった。 「裕司さんおかえり」  新しい紐靴と玄関で格闘していると、良の方が出迎えに来てくれて、裕司は振り向いてただいまと言った。 「これコンビニでデザート買ってきたから、冷蔵庫入れとけ」  肩越しに袋を渡すと、良は中を覗いて、満足そうな声でありがとう、と言った。見かけ以上に甘いものが好きで、食べ物で簡単に機嫌を良くするのが可愛かった。 「あんたなんかいい匂いするね」  肩に手を乗せられて、耳に髪が触れるほど顔を寄せられて、予想外に裕司はどきりとする。良の声が落ち着いていて、甘えたりじゃれたりする様子でないのが、余計胸に響いた。 「……ジムでシャワー使ったからじゃねえか」 「かな。よその匂いがする」  見上げると良は微笑んでいて、裕司は言葉が出てこなかった。  裕司がようやく靴を脱いで部屋に上がる頃には、良はもう台所で冷蔵庫を開けていて、あいつは自分がどんなふうに見えているのかわかっていないのだろうと思う。  黒い髪と、黒い瞳と、すっきりとした形の眉や鼻、赤い唇に癖のない輪郭。出会った頃青白いほどだった肌は、今はずっと血色が良くなって、いくらか日にも焼けて、いっそう瑞々しい若さを感じさせるようになった。  驚くような美形というわけではないけれど、黙ってそこにいるだけで絵になるような美しさが確かにあって、女性にもきっとモテただろうと思うのに、本人はあまり自分の容姿に頓着がない様子だった。顔の造作に特別不満もないが、さして良いとも思っていないようなことを言う。  自己肯定感が低いのはこれまでの環境を思えば仕方ないにしても、いい年頃なのだからもっと自分に関心を持てばいいのに、と裕司は思うが、それをうまく言葉で伝えられなかった。 「……お前もいい加減運動不足だろ」  そう声をかけてみると、良はいつもの静かな目を向けてきた。 「まあ、うん、そうだね。こないだちょっと走ったらすごい息切れたし」 「一緒にジム行ってみるか?」  良はぱちぱちと目を瞬いた。その瞳に映る光がきらきらとして、それだけで裕司はそれをとても綺麗だと思う。 「……ジムとか行ったことないけど、高いんじゃないの?」 「トレーナーつけるんでなきゃそんなでもねぇよ。行ったことないなら見てみるだけでも面白いんじゃないか?」  そわ、と良の好奇心が動いたのがわずかな仕草から読み取れて、裕司は笑う。自分に対する興味は薄いくせに、知らないものへの好奇心が旺盛であることは裕司もよく知っていた。 「……考えとく」  おう、と裕司が応えると、良は少しばかりはにかんで笑った。
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