10人が本棚に入れています
本棚に追加
epilogue
賢はお気に入りのシャツの襟を整え、窓に映った自分の姿を見た。ケチャップが口の端についている。ペロリとそれを舐め、賢はトンとカウンターに置かれたサラダを見て、そこから延長線上にある小島の顔を見る。
「野菜も食え」小島が苦い顔で言う。
十四歳の賢は黙ってそれを受け取る。
レストランはそれほど広くはないが、狭すぎもしない。赤いテーブルマットが敷いてあり、壁には小島の好きなフランスのボタニカルアートが額に入って飾ってある。建物は少し古い木造建築で、天井は抜いてあるので普通よりは高く梁が出っ張っている。白い傘のペンダントライトがぶら下がり、オレンジ色の光に店内は満たされている。
「今日は弟は一緒やないのか」
もう閉店間近というか閉店時間を過ぎているのだが、小島はそんなことは気にしない。時計の針は十時十分を差している。中学生がうろつく時間ではないが、細かいことはこの少年には求めない。荒んだような、しかしどこか落ち着いているような不思議な空気を持った少年だった。夜遅く出歩いている割には学校の成績も良く、弟の面倒見も良く、そして礼儀正しく物静かだ。何事にも真面目に取り組み、きちんとやり遂げようとする。オムライスだって残したことがなかった。
「アレは弟やない」
「おまえ、オムライスばっかり食っとったらあかん。いつも言うてるやろ」
賢は黙って小島を見る。この親父はいつも人の話を聞かない。最初に言ったはずだ。この店には今はいない両親と一緒に来た思い出があり、オムライスは誕生日に必ず食べた最高のごちそうなんだと。でも彼は刑事でもないんだから人の話を聞かなくても問題はない。料理の腕さえ良ければそれでいい。
「ヤクザがつきまとってるって聞いた。追っ払ったろか?」
賢が言って小島は笑った。「中学生が何を言うとる。食べて勉強して寝る。それがおまえの仕事や。早く帰って宿題して寝ぇ」
「この店がなくなったら、俺も困る」
「大丈夫や、まだまだヤクザには負けん」
「おっちゃんが負けんでも、店は負けるかもしれん」
小島は何を意味のわからんことを言うとるんやと笑った。
賢は答えず、サラダを食べてカウンターに金を置くと立ち上がった。
「じゃぁ今は勉強して寝る。でも大人になったら、俺は俺のやりたいことを仕事にする」
「そうやな、そうせぇ」小島は軽く言った。
そんなことを、十五年後、思い出す。あれは店が焼かれる前の夜だったと思う。珍しかった。いや、初めてだった。賢が閉店時間を過ぎてやってくるのは。小島が翌日の仕込みをしていたところを強引に開けさせたのだった。いつもは閉店時間にきっちり帰る賢がどうしたのかと小島も心配になったのだ。何か相談したいんじゃないだろうかと思った。何か家の人には言えないことがあるんじゃないだろうかと。思春期の少年の心に寄り添おうとしたが、賢は自分からは何も言わなかった。ただオムライスを食って帰っただけだ。
今から思えば、賢は知っていたんじゃないだろうか。あの夜、森口が店に火をつけることを。だから最後にオムライスを食べに来たのかもしれない。そう思って賢に尋ねると、賢はヘラリと笑って「俺は予知能力なんか持ってへん」と答えた。
あの後、賢は平塚鉄治の元で熱心に泥棒修行に励み、高校生の頃にはすっかり自活できるほど儲けていたと聞いている。小島が警察官になったので、小島から賢たちとは距離を置いたが、彼らは小島を街で見かけるたびに声をかけてきた。無邪気な二人に、小島は何度となく更生を勧めたがうまくいかなかった。賢が森口と近しくなるのを、小島も歯がゆい思いで見守った。
そして今、小島は自分が十五年前に捨てた生活を再び営んでいることを不思議に思う。しかも小島が望んだように、賢と龍太郎が泥棒稼業を捨て、地道に働いていることがもっと不思議だ。森口が裁判にかけられているのも不思議な気分だ。何よりも賢が森口に、いらんことを喋ってほしくなかったら店を都合せぇと脅したらしいという噂もリアリティが有りすぎて怖い。
小島は忙しいランチタイムの終わった洋食店の厨房で、鍋やフライパン、包丁やまな板を眺めながら既視感に襲われる。
賢がカウンターでまかないのオムライスなんて食っているから、余計にそう思うのだろう。向こうのテーブルでナナと龍太郎と西田が、数日後の貸し切りパーティのことを話し合っている。賢が入らないのは、彼がスタッフではないからだ。賢はこの店のオーナーだが運営には一切口を出していない。彼が求めたことはただ一つ。メニューにオムライスを入れることだ。そして賢は週に一度か二度、店にやってくる。その他の日々を彼が何をしているのか、小島もよく知らない。龍太郎によると、美術展とか博物館とか行ってるんじゃないかという話だ。下見じゃないだろうなと小島が疑うと、龍太郎は笑った。あれは賢の昔からの趣味やから、と。
「賢、おまえ、中学生の時から今の状況、計画してたんとちゃうよな?」
小島はどうしても気になって尋ねてしまう。
賢が眺めていた新聞から目を上げ、小島を見上げる。
「まさか」賢は顔色一つ変えずに答える。
小島はじっとその顔を見つめながら、瞳の奥に、平塚鉄治が持っていた輝きと似たものを見つける。金よりも人を騙したり出し抜いたりするのが何よりも大好きな鉄治の笑みに似たものを。
「賢、正直に言うてくれ。おまえ、まだ盗みをしてるんとちゃうか? 俺に警察を辞めさせて、逮捕できへんようにして、そんで弟や恋人はまっとうな仕事に就かせて」
「盗みはしてへん」賢は小さく笑う。「まぁやってることは似てるかもしれん」
「違法なことか」小島は不安になる。全てがうまくいったと思ったのに。
「いや、違法ではないと思う。ただ、裏切り者扱いはされてるな」
「誰に」
「今までの付き合いのあった奴らに」
「一体何をしてるんや」
「盗難防止アドバイザー。今までのスキルが役に立つ仕事があるとは思わんかった」
小島は肩の力が抜けて、ホッとした。
「おまえはほんまに…いつも予想外のことしてくれる」
「それは心外」賢は笑って言った。「俺はちょっと人よりもラッキーなだけで。確かに中学生の時にあんたの店がなくなって、俺はいつか森口を痛い目に遭わせたると思ったし、店も絶対に再開させると思った。思ったけど、なかなかチャンスが来んかった。でもチャンスが来たら絶対に逃さへんつもりやった。想い続けたら何とかなるっていうんはほんまやなと」
「やっぱり中学生の時から計画してたんやないか」小島は呆れる。
「計画はしてへん。願ってただけ」
一緒や。小島は苦笑いする。
「その仕事はやりたかった仕事か?」小島は尋ねた。
賢はオムライスに目を戻してうなずいた。
「そうやな、趣味と実益を兼ねてると言える」
小島はもうそれ以上、賢の趣味についても実益についても突っ込まないでおこうと思った。知らない方がいいことはある。
西田たちのテーブルがワッと盛り上がり、賢はそちらを振り返った。小島も目を向ける。
「賢、最高のアイデアが出たで。パーティを盛り上げる、完璧に安全で確かなうまい方法や」
西田が言って、賢は眉を寄せる。
「そんなもんは、この世にない」
聞いてよぉとナナが言い、小島は苦い顔の賢を見て笑う。
そんなもんは、この世にないと言いながら、賢は仕方なくテーブルの方へ行く。
ああ、これも見たことがあると小島は目を細める。
平塚鉄治がまだ生きていた頃、奥のテーブルで鉄治と賢と龍太郎がよく楽しそうに話し合っていた。
賢の横顔が困惑したり笑顔になったり変化するのを眺めながら、小島はこのまま世界が続けばいいなと思った。
end.
最初のコメントを投稿しよう!