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「賢!」小島は仕事帰りにコンビニから出て来たところで、賢を見つけて声をかけた。ひょろっとしたシルエットの賢が振り返る。
「おう、刑事」賢が笑顔で手を挙げた。
「刑事って呼ぶな。森口が殺し屋について吐いたから、おまえらの強盗殺人容疑は晴れそうや」
「俺らにそんなもんが掛かっとったとは初耳や」賢はコンビニの駐車場で小島のビニール袋を見た。
「刑事が仕事帰りにビール買うて帰るんは、世間体的にどうやろな」と賢は笑う。
「別に問題はあらへん。それよりおまえ、殺し屋と知り合いか」
「え? 殺し屋がそう言うたんか?」
「殺し屋はまだ捕まってへん。名前もわからん。通称とざっくりした容貌しかわからん」
「通称か。漫画みたいや」賢が笑い、小島はつられて笑う。
「笑い事やない」小島は慌てて顔をしかめる。
「俺には殺し屋の知り合いなんかおらん」
「森口が言うには、殺し屋はおまえを知ってて、もしかしたらおまえを狙ってるかもって言うてた」
「なんで俺が狙われる? 何もしてへん」
小島は肩をすくめた。「おまえが殺し屋を突き出せってヤクザを脅したやろ」
「脅してない。伝言を頼んだだけ」
「殺し屋はそう思ってない。でもまぁ、殺し屋もおまえに復讐するよりは、逃げてひっそりしといたほうがええ。捕まる危険を冒したくないはずやからな。おまえ、殺されることしてへんやろな」
賢は少し考える。「心当たりはないけど」
「ほんならええ。しかし天下の平塚鉄治も恨みは持たれとったからな。真っ当に生きてても、逆恨みされる世の中や。おまえらみたいに、際どいとこ歩いとったら、いつ落ちるかわからんで。気をつけんと」
「ジジイが恨まれとった?」
「そや。派手に動いとったら恨みも買う。なぁ賢、おまえみたいに、コソ泥やるついでに人助けしとったら、なんぼでも恨まれる。間宮さんが殺されたことで、おまえが怒りを感じてるんはわかってるけど、おまえが代わりに復讐することはない」
賢は首をひねる。
「復讐なんか、考えたこともない。俺はジイさんが生きてる間は手伝ったし、それが家に置いてもらってる務めやと思ってたけど、もうジジイもおらんし、ジジイの残した物もちょっとずつ減って行くし、もうええかなと思ってる」
小島は「賢」と両手を広げて賢の体を抱きしめた。
「そうか、改心してくれたんか。この日を待ってたで。俺はずっとこの日を…」
「刑事、改心て何や。俺は道を踏み外した記憶はない。あんたが刑事になるんは予想外やったけどな」
賢は小島の腕を振りほどいて刑事を見た。
「あんたの店が燃えてるんを見たとき、俺は世界の半分がなくなった気がした。ジジイが死んだときは、残り半分がなくなった気がした。でも龍やナナがおるし、あんたも刑事やけどおる。もうなくしたくないなと思ってるだけで」
「小さい世界やな。俺の店はおまえの世界の半分か」
「そのときは」賢は笑った。「今でもあんたの店が戻ったら、俺の世界はぐんと広がる気がするな。あんたもよう言うてるように、俺は狭い世界で生きてる。広げる必要がある」
「確かに」小島は大きくうなずいた。「広げろ」
「ジジイが生き返ることはない」
「当たり前や」
「あんたの店が戻ることはある」
小島はじっと賢を見た。「店はもうない。俺はもうコックやなくて刑事やし」
賢は小島を見返す。「料理はうまい」
「ありがとう」
「最高に」賢は目を伏せた。
「ありがとう」小島はもう一度言った。風が賢の短い髪をかすかに揺らした。
賢が目を上げ、小島を見た。
「ジジイはクソジジイやったけど、悪いジイさんやったけど、そればっかりやったわけやない。俺らには、優しいこともあった。そやから墓参りはする」
「おう」小島は戸惑いつつうなずいた。突然何の話や。
「そういう人間になろうと、俺も思ってる」
「そうか」小島は息をついた。「そりゃええこっちゃ」
「あんたの店を燃やした奴を逮捕したくて刑事になったんやろ」
「燃やしたんは森口で、森口は今逮捕されてるから、もう俺は刑事をせんでええやろと言うてるんやな。そんなに俺にコックに戻ってほしいんか」
小島は笑った。そこまで慕われたら心が動きそうになる。
「俺がそう思ってるんやない。世界がそう思ってる」
賢が言って、小島は苦笑いした。「世界な」
「そう、俺の狭い狭い世界が」
賢はポケットに手をつっこみ、くるりと踵を返した。
小島はその背中を見送りながら、相変わらずわけのわからんことを言う奴やなと思った。
店がなくなった翌朝のことを思い出す。黒くすすけた店の梁が青い空に妙にくっきりと清々しく見えた秋の朝だった。賢は世界の半分と言ったが、小島は世界が全て消えた気がした。怪我人が出なかっただけ良かったなんて、そのときは思えなかった。自分も焼け死ねば良かったとも思った。
いつの間にか隣に学生服の賢が立っていた。彼の通う中学校とはまったく違う方向だったのに、賢がそこにいることに違和感を感じないほど自然に立っていた。何も言わずにただじっと立っていて、水が滴る黒い木を一緒に見た。
賢が口を開いたのは、小島がため息をついて片付けようと足元の鍋の蓋を取った時だった。
「もうオムライス、食われへんの?」
小島は賢を見て、それから笑みを浮かべた。
「そうやな、難しいな」そう言いながら、賢がガッカリするのを見て心を痛めた。
賢は小島が罪悪感を感じるほどにガッカリした横顔を見せた。激しくはなかったが、静かに彼は落ち込んだ。
「店が焼けたから?」賢が聞いた。
「そうやな、こないなった店を元に戻すんは金がかかるからな。おっちゃんに、もうそんな金はないわ」
「金があったらできる?」
中学生で、おそらくまっとうな仕事をしてないと思われた鉄治の家の子に、金があれば何でもできると言うのは小島にはできなかった。変に勘違いして生きられては困る。
「これからは正義のために生きていこうと思う」
小島はそう言って、そう言ってからそうしようと決意した。人は思わず発した自分の言葉に決意することもある。
「正義って何」
賢が問い、小島は苦笑いした。
「何やろな。それを探そうと思ってる」
小島が言うと、賢はじっと小島を見ていたが、うなずいて踵を返した。
あの頃から変わらない。賢は小島の本当の気持ちを読んでいたのではないかと思う。金があれば店ができる。店があればオムライスが戻って来る。そう思わせたのは、自分かもしれないと小島は少し胸を痛めた。
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