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 邸宅の門を抜け、公道に出て、龍太郎はフィギュアスケートの円弧を描くようにハンドルを回した。タイヤが火を噴きそうに軋んで、賢もナナも西田も必死で投げ飛ばされないように努力した。龍太郎は上機嫌で笑った。しばらく追いかけてきていた警備会社の車が見えなくなったときには、口笛を吹いていた。  龍太郎が運転を少し普通に戻すと、賢はようやく息をついた気がした。龍太郎がラジオのボタンを押したので、軽いポップロックが流れてきた。西田が大声で笑い出し、賢は横目で彼を見た。 「ざまぁ見ろ、俺たちにかかったら王女だか王様だかの王冠とやらも軽いもんや。なぁ、賢」  彼は賢の肩をばしばしと叩いた。 「ティアラはなかった」賢は後ろに積んでおいたペットボトルを取った。それから胸から煙草の箱から一本取り出して火をつけ、水と煙草を交互に口に運ぶ。 「何にもなかった」  西田はへらへらと笑った。「賢、冗談はやめてくれよ」 「冗談やない。なかった。あそこの夫婦も殺されてた」  西田は眉を寄せ、それから賢を見た。素早くポケットからナイフを取り出し、隣でくつろぐ賢の首筋に当てる。「おい、俺をなめてるんとちゃうぞ。夕方には夫婦はおった。おまえ、俺を出し抜こうとしてるんやないやろな」  賢はすごむ西田を見て、それからゆっくり彼の顔に煙を吐いた。静かに怒りがこみ上げてくる。「あのなぁ、だったら身体検査でもしろよ」 「よし、してやる」 「その代わり、なかったら何かそれなりのことをしてくれるんやろうな?」賢は西田の方を向いて言った。ナナが背中に手をかけ、あまり熱くなるなとたしなめている。 「何やと?」 「当然やろが。俺は明日、もしかしたら殺人で指名手配されてるかもしれんのやぞ。おまえのお粗末な『完璧に安全で確かなうまい話』とやらのせいでな。くそったれ。俺は馬鹿みたいに開いてる金庫を見てむかついてるんや」  西田は賢を見つめた。長い付き合いで知っている。そういえば、賢は仕事は金のためだとか言いながら、盗みをやり遂げた後はいつも機嫌がいい。そして、うまくいかなかったり、ことが簡単に行きすぎても機嫌が悪い。西田は賢の不機嫌さを理解しようとした。 「まったくよ、どう考えたってまずい計画やろが。あんたが俺を罠にかけたんやなかったら、もうろくしてきたとしか考えられへんな。俺は金輪際、あんたの計画には乗りたくないね。特に『完璧に安全で確かなうまい話』なんてものにはな」  賢はそう言って前を向いた。ナナがなだめるように肩に頭を寄せてきたので彼女の肩に腕を回した。ナナは明日二百万を返さなければならないと言う。それも頭の痛いことだった。賢はとりあえず自分の金を渡してやるつもりだったが、ヤクザの森口に調子に乗られても困る。賢がナナに金を工面してやっていると知ったら、借金を半分にしてやるから仕事をしないかと言ってくるに違いない。言ってくるのはいいとしても、断れないというのが嫌なのだ。森口は人間的に賢の嫌いなタイプだし、約束も時間も守らない。服の趣味も最低だ。そういう人間とは付き合いたくなかった。 「わかったよ」  西田はナイフをしまった。 「どっちにしろ、俺はあの王女だか何だかのティアラを取り戻してやる。おまえもそう思うやろ? 賢」  賢は黙って前を睨んでいた。西田の話にはもう乗りたくない。 「それよりさぁ、賢って殺人犯と間違われるかもしれへんの?」ナナが言った。 「そうなったら俺たちのことは黙っとってくれよな」龍太郎が運転席から口を挟んだ。  賢はミラーの中の叔父を見た。龍太郎は、賢の眼光に気づいて黙った。 「ナナ、サバティーニの予約キャンセルしたこと、後悔してへんか?」賢はささやくようにナナに言った。今からでもどこかに行きたいと思った。この悪い一日を良く終わらせたい。せめて飲まなければやってられない。 「後悔? そんなものしたことないわ」ナナは賢を見た。「それより賢、どうするん? 私、殺人犯の恋人なんかいらんからね」  賢はナナの肩を抱いていた腕を元に戻した。  龍太郎がまず西田の家に車を止めた。西田は明日電話すると言ったが、賢はおまえとは仕事はしたくないと言った。それからナナの家に車は向かった。西田の家は郊外にあるが、ナナの家は街の中心近くにある。彼女は太った猫と一緒に住んでいたが、先月、その猫が死期を悟って行方不明になった。猫とはそういうもんやと賢が慰めたが、ナナはペットロストでしばらく情緒不安定だった。ナナのアパートメントはアンティークさがちょうどいい具合に出ており、外壁は赤煉瓦のタイルで覆われている。五階建ての三階に彼女の部屋がある。龍太郎はその建物を見上げて車を止めた。  ナナは賢が黙っているので、黙って車を降りた。それからドアを閉じる前に賢を見た。 「あした、森口に何て言ったらええと思う?」  賢はナナを見て、それから首を振った。「知らんな」  ナナは唇を少しとがらせた。「何よ、冷たいんちゃうん?」  賢は車を降りて助手席のドアを開いた。ナナが賢の背中に抱きついてきて、猫のような声で甘えた。 「百は出してやる。もう百は自分で工面せぇ。その石を売れば五十にはなるやろ? 何とかなるやろが」  賢はナナの方に体を向けて軽くキスをした。そして車のグローブボックスに手をつっこみ、百万の札束を取り出した。ナナは札束に目を奪われて、賢が自分に指を向けたのにも気づかなかった。 「いいか、森口には俺から借りたって言うなよ。いいな、俺の名前は出すんやない。わかったか?」 「貸してくれるだけ? くれるんとちゃうん?」ナナは不服そうに言って金を受け取った。 「貸すんや」  賢は助手席に乗り込んだ。ナナがバカ野郎と怒鳴ったが、賢はミラーで彼女を見て笑った。龍太郎はハンドルを丁寧に切った。賢がラジオ局をを別のところに変えた。女性ボーカリストの歌うブルースがかかった。 「先を越されたことなんか、初めてやな」  龍太郎が言った。賢は煙草をくわえて窓の上の方を少し開いた。心地よいくらいの冷たい空気が入ってくる。 「西田のアホが誰かに漏らしたんやろ」 「な、ほんまに持ってへんのか? さっき言ってたやん、西田を出し抜くって手もあるってさ」 「出し抜くも何も、現物がないんや」  賢は前を見つめて考えた。一応この筋の知り合いはたくさんいる。全員を知っているわけでもないし、外国人ならなおさら知らない。それでも多くの同業者を知っている。その中には人を殺してでも物を盗んだり金を奪ったりする人間がいた。賢の流儀には反するが、賢の流儀自体が社会に反しているのだから偉そうなことを言うつもりはない。 「そういえば今日は誕生日やったんやな。言ってくれたらええのに、黙ってるんもんやから、何の用意もできてへんかってん。何かほしいものはないんか?」  龍太郎は両手をときどきひらつかせながら話す。いくら天才ドライバーとはいえ、前を見てなければ危ないだろうと賢は思うのだが。 「ほしいもの?」 「おう、何でもいいぞ」 「いい酒が飲みたい」  龍太郎はその言葉を少し考えた。 「つまり、家に帰って親父の遺産を飲みつぶそうってことか?」  賢は黙って煙草の煙を吐いた。「そういうことやな」  龍太郎は笑ってアクセルを踏みこんだ。そういうことなら話は早い。しかも家ならいくらでも付き合ってやれる。龍太郎は楽しそうに運転をした。今日の仕事の警備員を一発で伸した場面の解説を賢にしながら、ちょっと大袈裟な手振りをつけて賢を笑わせた。そういうことでも龍太郎はいい奴だった。だから賢は叔父が好きだった。
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