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賢はお気に入りのスーツを着て、壁に立てかけた鏡を見つめて首を傾げた。黒い生地に薄く細いラインが入っている。嫌味にならず、地味すぎない。祖父の御用達だった加納町の仕立て屋で作ったスーツである。賢は鏡の横に置いた台からミネラルウォーターを取って一口飲んだ。それからもう一度髪型を確かめる。真っ直ぐな黒い髪は天を目指して立っている。ワックスやムースなどいらないぐらいに。賢はちょっとだけ顔をしかめ、剃り残しがないかと髭の最終確認をする。
腕時計を見て、そして壁にかかった時計を見た。それは止まっているのだが、ついいつもの癖で見てしまうのだ。舌打ちをして、それからテレビを見ながらソファでチップスを食べている叔父を見た。叔父の龍太郎は賢の祖父の最後の息子である。賢は祖父の長男の子で、最初の孫だ。賢の祖父、鉄治には五人の妻がいて、それぞれに子供がいる。しかし、賢は他のいとこや親戚に会った記憶がなかった。
「いいかげんに電池くらい入れろよな」
賢は椅子に引っかけたジャケットを取りながら言った。祖父からもらった古い革のジャケットである。
龍太郎は聞こえなかったふりをして、テレビのバラエティ番組に笑った。賢は手元にあるもので何か投げられるものがないかと探したが、見つからなかったので仕方なく諦めた。部屋は乱雑に散らばっているが、何一つ壊れていいものはない。
「なぁ」賢は部屋を出る手前で立ち止まり、龍太郎に声をかけた。「おまえも一緒に来たらいい」
「嫌や、邪魔者になるんは。ナナが怒るやろ」
「それは俺が説得するし」
龍太郎が信じられないという顔で賢を振り返る。賢は黙って肩をすくめる。そうやな、怒るよな、ナナは。龍太郎も家が大好きなのであまり外出したがらない。お互いにとって、これ以上の問答は必要ないように思えた。
「ほんじゃ、行って来る」賢はテレビに向き直った龍太郎の後頭部に言った。
「ちょっと。後ろを見て歩いてよね」
そう言われて賢は振り返ってナナを見た。ナナは断りもせずに家の中に入ってくる。「あんたはいつもそうなんよ。たまにはちゃんと後ろも確認しなさいよ」と彼女はぷんぷんしている。
賢は眉間にしわを寄せて一瞬考えた。前を見て歩けというのは子供のころからよく言われたが、後ろを見て歩けと言われたのは初めてだ。でも気にしないことにした。ナナが怒りっぽいのはいつものことで、今日は久々のデートなのだ。だからわざわざそれ以上に怒らせることもない。今日のナナは赤いワンピースに黒いショートコートを羽織り、かっこよくヒールを履いている。賢はナナがヒールのまま部屋に入ってきたことを、気にしないことにした。ナナはアメリカに留学していたから、外国人のような生活をしているのだと思いたい。だいたい、この家は元々洋館で、玄関と廊下の段差がない。それがきっとナナに誤解させる原因になっているに違いない。
ナナは散らかり放題の部屋の真ん中にあるテーブルの上を一瞥し、その上にあったものたちをぐいと一方に押しやった。おかげでいくつかの食器とゴミが自動的にテーブルの端からこぼれ落ちた。ナナはそこに紙を一枚叩きつけるように置いた。
「賢、この話、断ったってどういうこと?」
賢はナナの手の下にある紙をちらりと横目で見た。昨日龍太郎が持ってきた『完璧に安全で確かなうまい話』だった。昨夜、そんなものはこの世にあり得ないと賢は一蹴したのだ。
「そんなことより、ディナーは?」賢はナナの腰に手をやってキスをしようとして、顔を背けられた。
「あんたって頭がイカレたん? とうとう三十が目前になったからびびってるん?」
ナナは賢から体を離して腰に両手を当てた。テレビ番組がコマーシャルになったので、龍太郎が首を後ろに倒して眺めている。賢はテーブルに腰掛けるようにしてナナを見た。彼女は苛立って手を振り回しながら話す。彼女のハイヒールがこつこつと音を立てる。
「これは完璧に安全で確かな話やのに」
「しかもうまい話なんやろ」賢はうんざりして言った。「なあ、俺がなんでこの仕事してるかわかるか? 年中仕事せんでもええからや。年に二、三本やったら充分やからなんや。先月ので今年の分は充分稼いだ。俺は捕まりたくないし、冒険もしたくない。スリルもいらん」
「捕まるわけがないやん、完璧に安全で確かな話なんやから」ナナは甘えるような声を出した。賢をその気にさせるには、これが一番だった。
「そんなもん、この世にない」
「ここにあるの」
「なぁ、今日は俺の誕生日、祝ってくれるんやなかったんか? なんでここでうだうだと仕事の話なんかしてんねん。レストランの予約も入れたんやろ? サバティーニでディナーやって言うから、こうやって…」
「予約はキャンセルしてきたわ」
ナナはテレビの方を見て言った。龍太郎は番組が再開されたのでチップスをほおばり始める。
「何やって?」賢は首を傾げて聞き返した。
ナナはにっこり笑って賢を見た。「キャンセルしたわ。来年の予約は入れたから大丈夫。それでも大変やったんよ、ほんまは三年先まで埋まってるんやから」
賢は黙ってネクタイを緩めた。ため息も出ない。
彼はテーブルの上の白い紙を見た。ナナが色っぽい目で自分を見ているのが感じられる。しかし明らかに無謀な計画に参加するのは嫌だった。もちろん賢だって本当に『完璧に安全で確かな話』なら乗る。そうでなくても、難攻不落の壁にチャレンジする喜びぐらい知っている。が、それは今日でなくても良かったはずだ。二十九歳になったことを恋人と祝う予定の今日の夜でなくても。予約が取れない『サバティーニ』の予約をキャンセルしてまで打ち合わせるほどの仕事とは思えない。百歩譲って、それがとても面白い仕事なら乗る。が、龍太郎が持ってきたのは普通の家の、普通の盗みの仕事だった。その上、『完璧に安全で確かなうまい話』である。
気が乗らない。
賢は首を回し、それから息をついた。
「わかった、じゃあ出掛けるのは中止や。俺は寝る」
「私、もう乗るって言っちゃったもの」ナナはソファの方に行って龍太郎の隣に座った。龍太郎はチップスをナナに勧めた。
「誰に」賢は気分が悪くなりそうだった。最悪の答えが聞けそうな予感がする。
「西田さんよ、他にいる?」
賢は一呼吸置いて深く息をついた。確かに他にいない。が、たまには意外性のある答えも聞きたいものだ。賢はそういうことをナナや龍太郎に求めるのは、とうの昔に断念していた。というわけで、ジャケットを脱いで椅子にかけ、自分も椅子に座ってテーブルに肘をついた。
そして目の前の間取り図を見た。電気配線から通気口まで丁寧に書いてあるが、肝心の金庫の種類や大きさが書いてない。肝心の盗みには関係のない種類の情報ばかりが書いてある図だった。
ナナは龍太郎と一緒にテレビを見て笑っている。賢は眉間にしわを寄せてテレビを睨んだ。西田に乗ると言ってしまった以上、今さら降りるとは言えなかった。少なくとも計画を聞いてやらなければならない。聞いた上で何かと不手際を指摘して、これは安全でもなければ確かでもないということを証明してやれば降りることもできるだろうが。
西田は自称プロデューサーである。確かに一つの犯罪を成功させるためにいろいろな専門家を集める能力には長けていると賢も思う。言葉巧みに乗り気でない者を乗せ、分け前に不服を持つ者には甘い言葉で納得させる。そういう方面の才能は持っていると思う。賢も彼のようなコーディネーターがいるからこそ、あちこちから声がかかるのだし、これはシステム的にも効率がいいと思っていた。もちろん自分でやるよりは実入りが少なくなるが、それでも他の危ない犯罪者とのトラブルも減るし、お互いを深く知る必要がないので密告のリスクも減る。長生きをしたい賢としては、そっちの方がうれしかった。西田とは長い付き合いだし、これからも付き合いたい。が、年に何度か彼が持ってくる『完璧に安全で確かなうまい話』というのだけはいただけなかった。基本的に、そんなものはこの世にない。
賢は龍太郎が置きっぱなしにしていた資料に渋々目を通す。
「やる気になった?」ナナがチップスをかじりながらテーブルの方へ戻ってきた。賢は答えず、目も上げずに唇をなめた。ナナはこういうときの賢は、最高にセクシーだと思っていた。
ナナは賢の正面からテーブルに上って賢の前に座り、図面を下に落として賢の髪の毛をかきあげた。
「怒ってる?」
賢は黙ってナナを見上げた。
「百万をもう使ったんか?」賢は彼女の爆発したようなオレンジ色の髪型を見た。そういえば今日は髪型が変わったことをほめていない。「いいヘアスタイルやな」
ナナはにっこり笑った。「見て、これ、かわいいでしょ?」
彼女は細い指についた骸骨のリングを見せた。骸骨の目のところに赤い宝石がはめ込んである。
「ウルトラマンみたいやな」と言うと、ナナは唇をとがらせた。
「最高のルビーよ」
「最高やないな、これは」
賢は彼女の指をじっくり見つめて言った。少なくとも百万の価値はない。しかし、それは言わなかった。
ナナは指輪をためつすがめつしながら、そうなの?と残念そうにした。
「偽物やないだけましやろ。この前の二百万の石よりはな」
「賢、別れたいの?」ナナは強く賢を睨んだ。
賢はちょっと考えた。「いいや、そういう意味やない」
「良かった、あと十分で西田さんが来るわ」
ナナは賢の顔を両手で抱いて軽くキスをした。そして賢が立ち上がる前にテーブルから降りてしまった。
「そういうことはさぁ」賢はソファに戻るナナを見送りながら言った。「もっと早く言ってくれよな」
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