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便所に神はいない。神が胡座をかいて座るのは、カネと力を持ったお偉方の頭上と相場が決まっている。そういうお偉い連中は便所掃除を命じられることもない。俺は偉くないから、しょうがなく便所を磨く。
それにしても、便所、便所、便所。
便所は糞と小便をぶちまける場所に違いない。だからと言ってルール無用の出鱈目が許される場所でもあるまいし。せめてまっすぐ前を狙いやがれ。いったいどこを狙ってやがる。
「下手くそめ」
たかが小便だ。たかが小便なのに真っ直ぐ狙えない奴。
「盆暗が」
暗い怒りは募る。
「いつも綺麗にお使い頂きまして、まことにありがとうございますってか」
皮肉な独り言。金玉の照準がずれた何処かの馬鹿野郎を呪う。
洗剤の容器を逆さまにした。中身の液体を便器にぶちまけた。白い陶器に透明な緑が広がった。ブラシのプラスチックの柄を握り締めた。
「おーい」
扉越しに兄貴分の金山の声。金山は若頭補佐だ。たとえ逆立ちしてもチンピラの俺なんかが絶対に勝てない相手。
「高無」
無視。俺は一心不乱に便器の裏表をブラシで擦るふりをする。
「高無、親分がお呼びだ」
苛ついた声。それに重なるように轟く扉を叩く音。これ以上の聞こえないふりは危険だ。確実に殴り飛ばされる。
掃除用具を便所のすみに寄せた。腰を上げる。中腰が続いたせいか、足下がふらつく。
扉を開けた。商売用の黒づくめの衣装を身につけた金山が立ちふさがっていた。金山の真っ黒い衣装の左上腕と左胸に縫いつけられた旭日旗のワッペンが俺を睨む。
右翼。とはいえ、金山は似非右翼だ。右翼のくせに本の一冊も読まない。だから金山は本物の右翼と国の行く末を議論すると簡単に論破されてしまう。
「聞こえてるんなら返事ぐらいしろよ」
「はい。すいません兄貴」
形だけは頭を下げた。金山が身体を斜めにしたから俺はその横をすり抜けた。
「失礼しますよ」
古参の組員たちがひしめく殺風景な事務所内をひたすら腰を低くしながら横切る。
親分の執務室の扉を叩いた。
「高無ノゾムです」
「おう。入れ」親分の声が聞こえたから扉を開けた。
「入ります」
部屋の奥に親分専用の大層ご立派な机がそびえ立っている。机の真後ろの壁に立派な看板がぶら下がっている。看板には菱形の代紋と銅謙組の金文字。
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